煎り豆 − 【3】 BACK | INDEX | NEXT

2015/05/20 update

 ビュゥと冷たい音を立て、夜風が吹き抜けました。
 風の音が去ったあと、村で一番の金持ち長者のお腹から、ギュゥとねじれた音が鳴りました。
 そういえば晩のご飯を食べておりません。
 ご飯を食べに行こうにも、今ここを離れてしまっては、折角撒いた豆からすぐに芽が出て、育って、花が咲いて、いくら食べてもいくら使っても減らない豆が実るところが見られなくなってしまうかもしれません。
 長者は立ち上がって背伸びをし、広い敷地の真ん中の、大きく立派なお屋敷の方へ目玉を向けました。
 右を向いても左を向いても、お屋敷の影も形も見えません。
 元より、とってもけちんぼな長者の言いつけで、夜になってもランプもろうそくも使わないお屋敷ですから、今日のように月の明かりが弱い夜には、真っ暗な闇の中に沈み込んでしまうのです。
 村で一番の金持ち長者は大きな声で叫びました。
「ここに食事を持ってこい!」
 普段なら、誰かが慌てて跳んできて、長者のいいつけをすぐに聞いてくれます。
 でも今は、誰一人長者の所へご飯を運んでは来ませんでした。
 それも当然のことです。なぜなら、長者が自分で屋敷で働いている人たちを、全部屋敷から追い出してしまったのですから。
 広い敷地の何処にも、大きな屋敷の何処にも、長者のいいつけを聞いて働く人はおりません。
「ええい、何奴も此奴も怠け者ばかりだ! 早く食事を運んでこんか!」
 長者は足をばたばたと踏みならし、腕をぐるぐる振り回し、ツバキをぺっぺと吐き散らして怒鳴りました。
 それでも誰も来られる筈がありません。返事をする者すらも、一人だっていないのです。
 見えるのは暗闇ばかり、聞こえるのは自分のお腹の音ばかり。さすがに長者は心細くなりました。
 地面をちらりと見ましたが、豆から芽が出て、育って、花が咲いて、いくら食べてもいくら使っても減らない豆が実る様子はありません。
 お腹が空いて空いてたまらなくなった村で一番の金持ち長者は、とうとうお屋敷に戻ってご飯を食べる決心をいたしました。
「ああ、お腹が空いた、ああ、腹が減った。屋敷へ行く道は何処だろう?」
 真っ暗な畑の中をとぼとぼと歩き始めた長者は、ふわふわに耕された地面に足を取られて転びました。
 あんまり暗いので、足元がちっとも見えなかったからです。
 長者は足首をひねって痛めてしまいました。
「ああ、お腹が空いた、ああ、腹が減った。屋敷へ行く道はこちらだろうか?」
 真っ暗なあぜ道を足を引きずって歩き始めた長者は、きれいに刈り込まれた生け垣にぶつかって転びました。
 あんまり暗いので、一歩先もちっとも見えなかったからです。
 長者は腕を棘のある木の枝で引っ掻いて血を出してしまいました。
「ああ、お腹が空いた、ああ、腹が減った。屋敷へ入る口はどこだろう?」
 真っ暗な通路をとそろそろと歩き始めた長者は、頑丈なレンガの壁にぶつかって転びました。
 あんまり暗いので、前がちっとも見えなかったからです。
 長者はおでこを固い壁にぶつけてコブを作ってしまいました。
「ああ、お腹が空いた、ああ、腹が減った。食事は一体どこにあるだろう?」
 真っ暗な庭を手探りで歩き始めた長者は、立派なドアにぶつかって転びました。
 あんまり暗いので、何にも見えなかったからです。
 長者は尻餅をついて腰を痛めてしまいました。
「ああ、お腹が空いた、ああ、腹が減った。ここは一体何処だろう?」
 真っ暗な廊下を這い蹲って歩き始めた長者は、テーブルの脚にぶつかりました。
 たんこぶのできたおでこにテーブルの脚の角っこをぶつけたものですから、長者は痛さのあまり豆のサヤがはじけたときのような勢いで身を起こしました。
 長者の頭は、テーブルの天板の裏側にぶつかりました。
 あんまり勢いよくぶつかったものですから、テーブルは大きな音を立ててひっくり返りました。
 テーブルがひっくり返ったものですから、テーブルの上にあった物も全部ひっくり返りました。
 パンが転げてぽとん。
 チーズが転げてごろん。
 ワインがこぼれてばしゃん。
 スープがこぼれてびちゃん。
 お皿が割れてぱりん。
 コップが割れてがちゃん。
 料理は全部で百人分。
 お屋敷から追い出された料理長が、追い出される前に作り上げた、百人分のご馳走が、転げてこぼれて散らばって、全部が大きな音を立て、全部が床に広がって、全部がダメになってしまいました。
 村で一番の金持ち長者は、真っ暗闇の中でただただ口をぽかんと開けておりました。
 お腹がぐぅと悲鳴を上げましたが、食べるものはありません。
「ああ、お腹が空いた、ああ、腹が減った」
 長者はがっくりと肩を落とし、床にぺたんと座り込みました。
 灯りも火もないお屋敷は、深々と冷えております。立派な石を敷き詰めたお屋敷の床は、氷のように冷えておりました。
 村で一番の金持ち長者のおしりがじんじんと冷えました。
 痺れるような冷たさは、脚をつたってつま先に届き、背骨をつたって頭の先に届き、腕をつたって指先に届き、あっという間に体全部が氷のように冷えてしまいました。
「ああ、冷たい、ああ、寒い」
 村で一番の金持ち長者はもたもたと立ち上がりました。足元の床にはお皿や食べ物が散らかっています。    
 パンが蹴飛ばされてぽとん。
 チーズにつまずいてごろん。
 ワインの壺を踏みつけてばしゃん。
 スープの皿に足を突っ込んでびちゃん。
 お皿の欠片がぱりん。
 コップの破片ががちゃん。
 料理は全部で百人分。
 長者の足はぶつかったり、ひねったり、刺さったり、切れたりしてできた、赤いあざに青いあざに、刺し傷に切り傷で赤黒くなりました。
 長者はつまずかないように踏みつけないようにぶつからないように引っ掛からないように気をつけて、壁に手を付いて、そうっと歩きました。
 ようやっと廊下に出ますと、指の先になにやら当たりました。
 暗闇に目を凝らしますと、それは古い壁掛けの燭台でした。尖った先端に蝋燭の燃えさしがこびりついております。
 長者は大変よろこんで、火を付けました。
 小さな小さな明かりが点きました。手に持てば足元が見えず、床に置けば手元が見えない程に小さな灯でしたが、長者は少しだけからだが温かくなった気がしました。
「温かいところはないか? 温かい物はないか?」
 長者は燭台を手に持って長い廊下を歩き始めました。
 ところが、急いで歩きますと、小さな灯が大きく揺れて、今にも火が消えそうになりました。
「消えてしまう、消えてしまう」
 そこで、ゆっくり歩きますと、小さな灯は大きくなって、すぐにも蝋が燃え尽きそうになりました。
「消えてしまう、消えてしまう」
 長者は早く遅く、遅く早く、壁伝いに廊下を進みました。
 足は冷たくて痛くて、手も冷たくて痛くて仕方がありません。
 どれほど歩いたのかさっぱり判りませんが、ようやく長者は、どこかの部屋にたどり着きました。
 小さな明かりを掲げて部屋を照らしますと、たくさんの織物がたくさんの山になって積まれているのが見えました。
「これは助かった。この布を着込めば、寒くなくなるに違いない」
 大喜びで真っ暗な部屋の中に飛び込んだ長者は、高機の柱の角に脚をぶつけました。
 青あざ赤あざ刺し傷切り傷のできた足を柱の角にぶつけたものですから、長者は痛さのあまり豆のサヤがはじけたときのような勢いで飛び上がりました。
 長者はその拍子に、持っていた燭台をぽんと投げました。
 あんまり勢いよく投げたものですから、燭台は蝋を滴らせながら床に落ちました。
 火の付いた蝋が落ちたものですから、床の上にあった物は全部火の粉を浴びました。
 毛玉牛毛の織物がぷすぷす。
 絹の織物がぼうぼう。
 麻の織物がぱちぱち。
 地機の杼がめらめら。
 高機の枠ががらがら。
 反物は全部で百反分。
 お屋敷から追い出された職工長が、追い出される前に作り上げた、百反分の反物が、燻って焦げて燃え広がって、全部が大きな炎をあげて、全部に次々燃え広がって、全部がダメになってしまいました。
 村で一番の金持ち長者は、真っ赤に燃える炎の前でただただ口をぽかんと開けておりました。
 お腹がぐぅと悲鳴を上げましたが、食べるものはありません。
「ああ、お腹が空いた、ああ、腹が減った」
 総身がブルブルッと震えましたが、着込む物はありません。
「ああ、冷たい、ああ、寒い」
 長者はがっくりと肩を落とし、床にぺたんと座り込みました。
 大きな火が燃える作業場は、熱々に熱せられております。節だらけの板を敷き詰めた床は、炙られて熱くなりました。。
 村で一番の金持ち長者のおしりがじんじんと熱せられました。
 突き刺さるような熱さは、脚をつたってつま先に届き、背骨をつたって頭の先に届き、腕をつたって指先に届き、あっという間に体全部が火のように熱くなりました。
「ああ、熱い、ああ、焼ける」
 村で一番の金持ち長者はもたもたと立ち上がりました。足元の床には反物や機の部品が散らかっています。
 毛玉牛毛の織物の燃えさしが蹴り飛ばされてぷすぷす。
 絹の織物の燃えさしを踏みつけてぼうぼう。
 麻の織物の燃えさしが煽られてぱちぱち。
 地機の杼が転がってめらめら。
 高機の枠に蹴躓いてがらがら。
 反物は全部で百反分。
 長者の足は火に炙られたり、ぶつかったり、まとわりつかれたり、刺さったりしてできた、赤い火傷に青いあざに白いなますに黒いかさぶたでまだら模様になりました。
 長者はつまずかないように踏みつけないようにぶつからないように引っ掛からないように気をつけて、壁に手を付いて、大慌てで走りました。
 ようやっと表へ出ますと、足先に何かが当たりました。
 妙に赤い光の中で目を凝らしますと、それは古いリネンのテーブル掛けでした。すり切れた布地に食べこぼしのシミが残っております。
 長者は大変よろこんで、体にはおりました。
 わずかにわずかに体が温かくなりました。肩に掛ければお腹が出て、お腹に巻けば背中が出てしまう程に小さな布でしたが、長者は少しだけからだに力が出た気がしました。
「温かい場所はないか? 熱くない所はないか?」
 長者はテーブル掛けを頭から被って、赤い光の揺れる中庭を歩き始めました。
 ところが、急いで歩きますと、小さな布はが熱風に煽られて、今にも飛ばされそうになりました。
「飛んでしまう、飛んでしまう」
 そこで、ゆっくり歩きますと、かじかんだ手から力が失せて、今にも布を落としてしまいそうになります。
「落ちてしまう、落ちてしまう」 
 長者は早く遅く、遅く早く、闇雲に庭を進みました。
 足は冷たくて痛くて、手も冷たくて痛くて、体も冷たくて痛くて仕方がありません。
 どれほど歩いたのかさっぱり判りませんが、ようやく長者は、どこかの蔵にたどり着きました。
 手探りで扉を開けますと、たくさんの袋がたくさんの山になって積まれているのが見えました。
「これは助かった。この袋に腰を下ろして寝ころべば、疲れも痛みも取れるに違いない」
 大喜びで広々とした蔵の中に飛び込んだ長者は、粉碾きの石臼の角に脚をぶつけました。
 火傷なます青あざ赤あざ刺し傷切り傷のできた足を大きな石にぶつけたものですから、長者は痛さのあまり豆のサヤがはじけたときのような勢いで飛び転げました。
 長者はその拍子に、持っていたテーブル掛けをぽんと投げました。
 あんまり勢いよく投げたものですから、テーブル掛けはばさばさと音を立てて宙を舞いました。
 あまり大きな音を立てた物ですから、蔵の壁の奥に棲み着いていた鼠達が驚いて、キィキィ鳴きながら走り回りました。
 大鼠が柱にぶつかってごつん。
 子鼠が梁から落ちてどすん。
 小麦の袋が揺さぶられてぐらり。
 小麦粉の袋が崩れてばさり。
 袋は全部で百袋。
 お屋敷から追い出された人足頭が、追い出される前に碾き終えた、百袋分の小麦粉袋が、倒れて崩れて裂けて、全部が大きく破れてこぼれて、全部が地面にぶちまけられて、全部がダメになってしまいました。
 村で一番の金持ち長者は、真っ白に漂う埃の前でただただ口をぽかんと開けておりました。
 お腹がぐぅと悲鳴を上げましたが、食べるものはありません。
「ああ、お腹が空いた、ああ、腹が減った」
 総身がブルブルッと震えましたが、着込む物はありません。
「ああ、冷たい、ああ、寒い」
 体中がずきずきと痛みましたが、休める場所はありません。
「ああ、熱い、ああ、痛い」
 長者はがっくりと肩を落とし、地面にぺたんと座り込みました。
 粉袋からあふれた粉は、モウモウと煙ってあたりに舞広がります。蔵の外の石ころだらけの地面の上にも粉は漂って振り落ちました。
 村で一番の金持ち長者の鼻がむずむずとくすぐられました。。
 くしゃみの出そうな気持ち悪さは、脚をつたってつま先に届き、背骨をつたって頭の先に届き、腕をつたって指先に届き、あっという間に体全部がモゾモゾとか気持ち悪くなりました。
「ああ、むずがゆい、ああ、こそばゆい」
 村で一番の金持ち長者はもたもたと立ち上がりました。足元の地面には粉まみれの鼠が走り回っています。
 大鼠が粉の袋にかじりついてぼりぼり。
 子鼠が粉まみれの靴にかじりついてかりかり。
 小麦の袋が落ちてきてどっすん。
 小麦粉の袋に穴が開いてざらざら。
 袋は全部で百袋分。
 長者の足は鼠に噛まれたり、火に炙られたり、ぶつかったり、まとわりつかれたり、刺さったりしてできた、青黒い傷に赤い火傷に青いあざに白いなますに黒いかさぶたでまだら模様になりました。
 天を仰ぎますと、空は妙に明るく、細い月はいつのまにやら西の空の果てに消えておりました。
 丘の向こうの牧場あたりから、毛玉牛の悲鳴が聞こえます。牧童は全員お屋敷から出て行きましたから、山犬の群れが追い払われることなく柵を跳び越えているのでしょう。
 庭を挟んだ向こうの建物は火炎に包まれ、炎が天を赤く焦がしております。使用人は全員お屋敷から出て行きましたから、火は消されることなく燃え広がっているのでしょう。
 目の前の蔵では鼠が走り回っています。
 人足は全員お屋敷から出て行きましたから、鼠も虫もとがめられることなく穀物を食べ散らかしているでしょう。
「なんてことだ、なんてことだ」
 長者は山犬を追い払わなければならないと思いました。火を消し止めなければならないと思いました。鼠どもを追い出さなければならないと思いました。
 でも、お腹は空いておりますし、寒くて体の震えは止まりせんし、熱くて汗があふれ出しますし、痛くて体中が痺れております。立ち上がることも大声を出すことも、他の方法を考えることもできません。
 村で一番の金持ち長者の財産は、長者がぺたりと座り込んでいるうちに、どんどんと減っております。
 そう思いましたら、長者の体はますます震え、ますます汗があふれ、ますますじんじんと痺れ、指先一つも動かせなくなりました。
 とうとう長者は、その場にばたりと倒れ込んでしまいました。
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