熹平四年、西暦175年の正月。
中華の国は太古より太陰太陽暦(たいいんたいようれき)を使っていた。従って、正月は立春と共にやって来る。
例年ならば文字通り春を迎えるはずが、その年はいつになく寒さが厳しかった。
劉備玄徳(りゅうび げんとく)と劉亮徳然(りゅうりょう とくぜん)は、辻の日陰に名残雪を見ながら、州都の裏通りを歩いていた。
「ここが筆屋、あちらが墨屋。うん、写本請負などとは、さすがに廬(ろ)老師のお膝元と言えような」
徳然はやたらと辺りを見回している。あまりに「お上りさん」然とした彼の様子に、玄徳はため息を吐く。
「書写に勝る勉学は無しと聞く。それを他人に任すなど、曲学阿世(きょくがくあせい)もよいところさ」
こと学問に関しては又従弟よりは己の方が上だと確信していた徳然は、彼の理にかなった言葉に驚き、少々腹を立てた。
「お前は写本をしたことがないから、その大変さを知らんのだ」
と、言い捨てる。
そして大人げないとは思いつつ、プイと横を向いた。
その横目に、純白が映った。
雪、と、一瞬思いもしたが、残雪ならば土埃を吸って茶に染まっている筈である。
純白は静かに佇み、わずかに動いている。
真っ白な馬だった。
引き締まった筋肉の付いた、大柄な、美しい馬だ。
飯屋の門扉に手綱で縛り付けてある。
馬主の姿は見えない。
「良い馬だなぁ」
徳然は照れ隠しもあって、大袈裟なくらいに驚嘆してみせた。
『叔郎は無類の馬好きだ。馬の話をすれば、都合の悪いことを忘れてくれる』
そう踏んだのだが、玄徳は一言も発してくれなかった。
彼は、じっと見つめていた……馬ではなく、その背の鞍を。
徳然も、鞍に目を転じた。
粗末な革の鞍は無数の傷に覆われていた。相当に使い込まれていることは、彼にもすぐに判った。
『ありきたりの安鞍に見えるが、何が面白いというのだろう?』
首を傾げ、玄徳の顔をのぞき込んだ。
彼は、鞍にぶら下がっていた金具に目を注いでいる。
それは半円形をしており、鞍の両脇に一つずつ付けられている。大きさは四寸(漢代の一寸は、およそ2.3〜2.4cm)程度である。
「何に使うのか……」
ぼそ、と、玄徳がつぶやいた。
「車でもつなぐんだろう?」
徳然が言うと、彼は首を横に振った。
「この馬は荷なんか引いたことがないさ。
大体、力仕事をするヤツは、肩に肉が付いて関節が太くなるんだ。騎馬にして速く走らせると、こういう締まった肉が付く」
「じゃ、ただの飾りだ。彫金がしてあるし」
確かに金具には素朴な模様が彫りつけられている。
しかし、模様と同じくらいの密度で、小さな傷も負っている。
それに、全体的に薄汚れていて、泥土にまみれている。
玄徳は右の耳たぶを摘んだ。
直後、彼は微かにニッと笑った。
白馬の背に手を掛け、ポンと大地を蹴った。
大柄な体躯がひらりと舞ったかと思うと、彼は鞍の上に座っていた。
膝を軽く曲げると、件の金具は足を掛けるに調度いい場所に付いている。
彼は悠然と手綱をほどき、馬腹を蹴った。
白馬は一声いななくと、十年の主人が操っているかのごとく、軽やかに駆け出した。
「叔郎! お前、ヒトサマの馬をっ!」
又従兄の怒声など玄徳の耳に届かない。彼に聞こえるのは、ただ風の音ばかりだ。
ふっと、右手を手綱から離す。
金具を踏み締めていると、右腕が思う以上に自由に動かせる。
「よし」
左手も離した。
上体がぐらついたが、それは一瞬のことだった。
馬の背を抱える腿に力を入れれば、体の揺れは