が早世した。
気落ちした雄は、病を得て亡くなる。
妻も、呆気なく後を追った。
哀れなのは、十六で嫁ぎ、十七で子を産み、十八で寡婦となった劉弘の嫁である。彼女は以来、喪服をまとって暮らした。
極貧の中に残された彼女は、縄をない、筵むしろを織り、草履を編んで、必死に働いた。
その筵や草履を、亡き夫の忘れ形見の男児が、街で販ぐ。
そんな小商いで、劉家は糊口を凌いでいた。
……その男児が、劉叔郎なのである。
熹平三年、西暦175年の晩春。
叔郎は数えで十四歳の元気な……有り体に言えば腕白な……少年であった。
日頃の彼は、よく母を手伝う、商売上手な孝行息子である。
しかし、仕事をしなくてもよい日には、痩せ馬にまたがって、母親に行く先を告げずに遠乗りに出かけてしまう。
これは、余談になるのだが……。
漢代以前の史書を読む中で、「騎馬、あるいは騎射(馬上から矢を射ること)に優れる」と注釈の付いている人物とぶつかったなら、その者は現代人の想像以上の乗馬技術を持っていた、と確信していい。
何故なら、漢の鞍には鐙(あぶみ)がないのだ。つまり、馬上で手を放して足を踏ん張ることができない。
腿で馬の背を締めてバランスを取らねばならないのだから、並みの平衡感覚・運動神経では、馬に乗ることすらできないのだ。
漢民族が鐙を開発できなかったのは、彼らに騎馬戦という戦闘方式の概念がなかったためである。
馬に荷車のような戦車を引かせ、そこに御者と戦闘員を二・三人乗せて戦う、戦車戦が主流であった。
東漢(後漢)末には、北方の遊牧民達と主に「戦争」という名の交流が持たれ、その影響で、騎兵という部隊も編成されるようになってはいた。
それでも、鐙付きの鞍が全土に広がるまでには到っていなかった。
当然、劉叔郎の痩せ馬に、そんな「最新兵器」は備えられているはずがない。
閑話休題。
叔郎の遠乗りは、日が落ちるころに終わる。
彼は夕げに間に合うように、ちゃんと帰ってくる。
それでも母親は、できることなら出かけないで欲しいと願い、もっと早く帰って来て欲しいと祈っている。
彼がたいがい怪我を負ってくるからだ。
あるいは狩りで、あるいは喧嘩で。青痣・擦り傷・刀傷……命に別状のなかった疵が、彼の体を埋め尽くしている。
ところが。
その腕白の様子が、ここ数日の間、すこしおかしい。城下での商売から戻ってから、一度も外出しないのだ。
家の中にいないと思うと、東南の桑の樹上にいる。太い横枝に身を任せ、じっと瞼を閉じている。
日頃の活発さがある故、静かにしていれば静かにしていたで心配になる。母親は
『どこぞ具合でも悪いのかしら』
などと勘ぐってもいた。
その朝、叔郎は織りかけの筵の前に座っていた。
手は、動いていた。しかし、心ここにあらずといった風で、目は窓外の蒼天の中を泳いでいる。
母親の不安は、ついに声になった。だがそれは、穏やかな、何気ない言葉だった。
「阿叔(あしゅく)や。何か考え事かい?」
「阿〜」というのは、日本語の「〜ちゃん」に相当する、子供の愛称である。
叔郎は青空の映り込んだ瞳を母に向けた。
「ねぇ母者。もし俺が長いこと家を空けたりしたら、やっぱり寂しいかい?」
おどおどとした口調。
真剣な瞳。
「……空けるつもりなの?」
母親は、寂しそうな、仕方がなさそうなまなざしで、一人息子を見つめた。
叔郎は慌てて頭を振った。
「いや、もしもの話だよ。……何でもない」
彼は微かに笑むと、窓の外に目を移した。
桑の枝々は