いにしえの【世界】 − 開演 【10】

ている。
「頼みますよ姫若さま。やらなきゃならねぇことを忘れて貰っちゃ困ります」
 苦笑いしながらわざとらしく下男の口調で言う彼に、赤面と引きつった笑みを返すと、彼女は慌てて膝の上に広げた羊皮紙に目を落とし込んだ。
 暗闇の中に目を凝らす。闇に目が慣れるまでしばらく時間がかかった。
 読みづらい。灯りがない所為ばかりではない。
 ほとんど文章をなしていない単語の羅列が、滲んだ薄いインクで書き殴られている。断片的で、文章の体をなしていない。
 最初の一枚の中でどうやら読める部分はヨルムンガント・フレキの「文章」ではない。文字は確かに彼の物だったが、内容は別人の書いた物……正史と呼ばれる古い歴史書の引用だった。

「皇帝サフサファ山にて野営を張る。足下戦多し。平定の誓いを立て、封禅となす」

 引用された文章の「皇帝」という単語が、引用文を書いたのとは違う濃さのインクによって丸く囲まれていた。
 このインクは単語を囲むばかりでなく、その上に二重の打ち消し線を引いている。
 さらにそれは矢印を描く。太く引かれた矢柄をたどり、行き着いた矢羽の先には、単語が一つ書き留められている。

――クラリス――

 エル・クレールは息をのんだ。
 顔を上げた彼女は声を上げることができず、無言でブライトの顔色をうかがった。
 彼はうっすらと笑っている。
「『帝、人心乱れるを憂いて聖山に上る』だな。つまりお前さんの四〇〇年昔のご先祖が挙兵の表明をしたってあたりのハナシだ。音楽は官製の楽譜と寸分違わない。あの阿呆が指揮者に刺した釘が、しっかり効いていやがる。演出は少しばかり違うが、筋立てそのものは公式な物と大差ない」
「本当にあなたという方は、妙なことにばかり精通していらっしゃるのだから」
 エル・クレールはため息を吐いた。
 ブライト=ソードマンが世の中の表裏について様々な知識を持っていることは、彼女もよく知っている。
 ことさら市民の風俗についての見識は、その分野について全く疎い折り紙付きの「深窓の令嬢」にとっては計り知れぬ深さのものだった。生活能力が皆無に近い彼女が、今まで無事に生き延びてこられたのは、彼が傍らにいてくれたからこそである。
 ただし、思いもよらない部分に関して、彼は酷く無知であった。
 亜麻布《リンネル》の手触りで産地を易に言い当てる割には、その糸が青く可憐な花を咲かせる亜麻《フラックス》の茎から紡がれるのだということを知らない。(それでいて、亜麻畑の労働者達がどの様な労働歌を歌っているのかは熟知している)
 微妙に色合いの違う顔料がそれぞれどこから産する鉱石を砕いた物なのかを見分ける眼力があるにもかかわらず、全く画風が違う絵の描き手の区別が付かない。
 知識の厚みが片寄っているのだ。焼き損ないの薄焼きパンさながらに、不必要に分厚く、それでいて所々薄く、酷いところは穴が空いている。
 実をいうと、エル・クレールは彼の知識の「穴」を見つけることが好きであった。
 ブライト=ソードマンは、恐ろしく腕が立って、恐ろしく頭の回る男だ。
 彼が外道共を文字通りに粉砕するさまを見せつけられれば、人間離れしているという言葉が比喩とは思えなくなる。
 彼を心から信頼しているエル・クレールも、時折恐ろしく思うことがある。……それは、自分自身の内側から湧いてくる力にも感じる、得体の知れない恐怖でもあった。
 その恐ろしい男が時折間の抜けたことをするのを見ると、彼が普通の人間であると、ひいては自分自身も紛れもない人間であると確信でき、安堵できるのだ。
 粗探しの趣味の悪さ


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まろやか連載小説 1.41
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