いにしえの【世界】 − 開演 【10】

を恥じつつも、エル・クレールは期待し、同時に不安に苛まれている。
「精通なんて大仰なモンじゃねぇだろうに。この国の人間をやっているヤツなら大概あのつまらない音楽が脳味噌にこびり付いてる」
 ブライトは呆れ声で呟いた。知らない方が可笑しいと、暗に言っている。
「仰る通りです……楽譜の通りだと断じられるほど理解しているかどうかは別として」
「突っかかりやがるな」
 エル・クレールの眉間に浅い縦皺を見つけたブライトは、腰袋を指し示し、訊ねる。
「こいつが何か悪さをしてるかね?」
 彼は相棒の不機嫌の原因に自分が含まれていようとは、つゆほどにも考えていない。もっとも、彼の言動自体が彼女に不審を与えているわけではないのだから、考えが及ばないのは当然のことだった。
 故に彼は、腰袋の中にしまい込んだ「物」が彼女に何かしらの影響を与え続けているのではないかと考えるに至った。
 エル・クレールは首を横に振った。ブライトにはそれが緩慢に見えた。
 考えが確信に変わる。彼は袋に手を突っ込んだ。
「お前さんがなんと言おうと、今朝からこいつの存在がお前さんの気を散らしているのに間違いはねぇ。押さえ込んでおいてやる」
 がらくたの中から小さな蝋の塊を探り出し、握る。
「それで、どう見たね?」
 彼は腿の上に肘をつき、背を丸めた。握り拳を顎の下に置き、頭を支える。
「初代皇帝の役、つまり男性を、あの娘が演じている」
 低く言うエル・クレールの唇は、乾ききっていた。
「お前さんを迎えに来て卒倒した娘だな。確かシルヴィーと言った。舞台に上がると人間が変わるタイプか。中々に巧いじゃねぇか。もっとちゃんとした所でも……現状じゃ主役《プリマ》はキツかろうが……第一舞踏手《ソリスト》は演れる」
 ブライトはエル・クレールが望んでいる回答を返さなかった。
「娘ばかりの劇団だから、しかたなく娘に男の役を割り当てている……?」
 エル・クレールはあえて間違いなく否定されるであろう「好意的な意見」を口にした。
「あの阿呆のことだ。件のお偉いさんにゃぁそう言い張る腹づもりでいるンだろうがね」
 ブライトは唇の端に意地の悪い微笑を浮かべた。『続きは言わなくても解る筈だ』の意である。
 エル・クレールはうなずいた。
『その人物が女であったから、当然女の踊り手に役が振り当てられている』
 彼女は膝の上の羊皮紙をじっと見た。闇の中で一つの単語が踊っている。インクの色は心もとないほどに薄いが、筆圧は高い。その女性名が強い確信を持って書かれたことの証だった。
「フレキ叔父は……なぜそう思われたのでしょう?」
 文字の上を指でなぞりつつ、エル・クレールは呟いた。
「四〇〇年の間にゃいろんな史料が作られちゃぁ捨てられるを繰り返してる。捨てたつもりが捨てきれなかった物も、中にはあらぁな」
 くぐもった声でブライトが言う。彼の視線は舞台に注がれていた。閉ざされた幕が重く揺れている。
「捨てられるはずだった物の方が、伝わっている物よりも正しいと?」
 当然ともいえる疑問を投げかけられたブライトは、深く二つ息を吐いた。
「残った物にだって正しい物はある。例えば、正史にゃクラリスって名前は書いてねぇんだぜ。かっ攫われたときにゃ『美姫』、その後は『皇后』。それっきりさ」
「え?」
 人気のない劇場の中に、エル・クレールの声が反響した。驚愕の大きさが、そのまま声の大きさとなっていた。
「『ガップの古書による。后の諱、クラリスと伝わる』ってのは、正史を書き始めたヤツがおっ死んでから百年ぐれぇ後に、別の研究家が付けた注釈だ。まあ


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まろやか連載小説 1.41
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