し盗ってあげる」
叫び、腕を伸ばす。文字通りに腕が伸び、エル・クレールの喉元にからみついた。
腕はエル・クレールの首を締め付けながら縮んだ。引き寄せられるように【月】の上体が起き上がる。
このとき【月】は気付くべきだった。
エル・クレールが自身の腕を振り払おうとしなかったこと、引かれることに逆らってむしろ【月】の身を起こさせようとしていたことに。
起き上がった【月】の曇った鏡面に、白い顔が映り込んだ。
鋭い眼差しには、戦う決意が見える。
優しげな口元には、慈愛の微笑がある。
【月】の顔が歪んだ。
「お前は、誰?」
エル・クレール=ノアールの顔面は、埃で少しばかり汚れている。頬や額には血の滲む擦過傷と小さな切り傷とが出来、頬骨のあたりには打撲の痕が赤く腫れている。
しかしそれらは彼女の顔貌を他人にしてしまうほどの変容とは言えない。
彼女の顔立ちは、どこか幼さのある若者ようで、意志の強い少年のような、世間知らずな生娘のそれのままである。
エル・クレールの顔が【月】の鼻先に引き寄せられた。【月】は目玉を見開いて、彼女の顔を見た。
曇った凸面鏡に、女の顔が映った。
気の強そうな顔だった。
化粧気のない顔だった。
薄い傷跡がいくつも残る顔だった。
酷く痩せていた。
日に灼けた皮膚が髑髏の上にぴんと張られた顔の、落ちくぼんだ眼窩の奥で、灰色の瞳をぎらぎらと光っていた。
【月】の目が、針のように細く鋭く変じた。
「アタシ……」
ヨハネス=グラーヴの胸の奥に、一つの景色が浮かんだ。
酒場だった。
上等な社交場とは言い難い。薄暗い店内では、あまり身なりの良くない男達が、一人か二人ずつ席について、話もせずにちびりちびりと酒をなめている。
ただ一席、酷く騒がしいテーブルがあった。若い剣士達が数人集まって、笑い、呑んでいる。
明日とある良家の婿養子となる花婿とその友人達が、友の結婚を祝い、独身最後の日を惜しむ乱痴気騒ぎを饗しているのだ。
「――も、明日から城伯《じょうはく》サマか。出世した物だな」
友人の一人が花婿の杯に強い酒を注ぐ。口調には厭味と軽蔑と羨望とが入り交じっていた。
皆、貧乏貴族の次男や三男だった。相続権は無いに等しく、身を立てるためには武功を上げるか実力者に取り入るか、でなければどこかの家付き娘の婿になるより他ない連中である。
ハーンからギュネイへの禅譲が平穏に執り行われたほどに、表面的には平和な昨今である。武に依る出世などというものは、夢のまた夢だ。
実力者に取り入るには多くの付け届け(有り体に言えば賄賂)が要る。元より領地の無いに等しい小貴族の家にはそのような「余分の費用」をひねり出す余裕など無い。
どこかの令嬢と縁を結ぶにしても、相続権付きの花嫁などは相続権付きの花婿と同数か、むしろ少ないのだから、やはり難しい。貴族の箔が欲しい平民の金持ちの所へ転がり込めればしめたものだが、そういった口も多くあるわけではない。
そんな中、この花婿は城伯という、言わば地方都市の「王」の娘と婚姻することとなった。友人達が羨み、嫉み、妬むのも当然であり、仕方ないことだった。
木の杯にあふれるほど注がれた強い安酒をあおりつつ、花婿はニタリと嗤った。
「まあ、しばらくはおとなしく猫を被って辛抱することになるがな」
「辛抱か」
「確かに辛抱が必要だろうな。花嫁殿のあのご面相は……」
一同、笑いを堪え、肩をふるわせている。
「なんでも城伯様は男の子を欲していたとか。生まれた赤子の顔を見て、願い適ったと小躍りしたが