だ黒々としておいでで、齢六十に近いとはとても思えませんでした。
一益様は父の前名が「喜兵衛《きへい》」と言うのを知っておいでで、
「武田の『重臣』でありながら、のうのうと生き残り、こうして我らの前にいる。御主のような珍妙不思議な強か者が『木《き》』であるものか。『鉄《かね》』だ『鉄兵衛《かねべい》』だ」
と仰って大いに笑い、以後父のことを『鉄兵衛』とお呼びになったのです。
その後、一益様には関東の地が新しい領土として与えられましたので、我らも当然付き従って関東に戻ることになりました。かくて、一益様は武田の本拠地である厩橋城にお入りにったのです。
そして我ら親子と申しませば、元の居城である信州の砥石に移ることを強く望んでおったのです。
我ら親子は、すぐにでも砥石に戻り、さらにそこから親子兄弟一門を各々それぞれを東信濃と甲州に散らして、危うく失いかけていた領土をとりまとめるつもりでした。
許可は、簡単にはおりませんでした。
当然です。
新しく配下になったばかりの、元々は厄介な敵であった者共を、そう易々と遠く目の届かない所へ放つようなことは出来るはずがありません。
それでも私たちは、何時でも出立できるよう、密かに旅装などを整えておったのです。
そんな折、突然に一益様から「茶会をするから、厩橋へ来い」とのお招きが来ました。
私は一益様のご真意が図りかねました。訝しんでおりますと父が、
「山家の田舎侍の不調法を肴に旨い酒でも飲む御算段やも知れぬな」
大層な大声で言いました。私は慌てて
「まさかにそのようなことは」
辺りを見回しました。同じ部屋におりました源二郎などは、障子襖の隙から外を窺う素振りまでして見せたのです。
我々は「滝川様のお城」の中にいるのですから、言動に気を遣う必要があったからです。
尤も、父は恐らく、むしろ滝川のご家中の誰ぞがこの声を聴いてくれればよい、と考えていたのでしょう。
「まあ、あちら様のご期待に沿った振る舞いをする気など、更々ないがな」
と言った父の頬の上に浮かんだ笑みは、戦を前に策略を考え回している時のそれとよく似ておりました。
お茶席は大層華やかな物でありました。
武田の家中でも茶をする者がなかったわけではありません。しかし茶道の中心においでの織田様の旗下の方々が催す茶会には比べようがありませんでした。
茶器は唐渡りの物が多く、事に茶碗は天目の見事な逸品でした。その茶碗で見事な御作法でお茶をお点てになったのが、目の覚めるような紅の利いた辻が花染の小袖を、厭味なく大柄な体に纏った、前田宗兵衛殿です。
さて、主賓たる一益様といえば、小心な私が恐々として参加したその茶席で、我が父の顔を見るなり、なんと、
「良く聞けよ、鉄兵衛殿。上様は、大層に狡《ずる》い御方ぞ」
と言い放たれたのです。満座の者達の……いえ、一益様ご本人と、宗兵衛殿と、それから我が父を除いた方々の顔が強張りました。
一益様が仰ったのは、大体次のようなことでした。
かつて織田信長公は一益様に、
「良き武功あれば、かねがねそなたが欲していた『珠光小茄子《しゅうこなす》』を遣ろう」
と仰せになったそうです。この茶入は信長公の蒐集品の中でも随一といわれる逸品であったので、一益様は大層お励みになりましたが、なかなかにこれを賜ることができませんでした。
そしてこの度、信長公から、武田家を滅ぼし、関東を平らげたその褒美を遣ろうとの仰せがあり、一益様は、
「此度こそは、漸く『珠光小茄子』が戴けるに違いない」
と、心浮かれ、踊るよ