桶狭間合戦

菊池寛




       信長の崛起

 天文十八年三月のこと、相遠参三ヶ国の大名であった今川氏を始めとし四方の豪族に対抗して、尾張の国に織田氏あることを知らしめた信秀が年四十二をもって死んだ。信秀死する三年前に古渡こわたり城で元服して幼名吉法師を改めた三郎信長は、ただちに父の跡を継いで上総介と号した。
 信秀の法事が那古野なこのは万松寺に営まれた時の事である。重臣始めきらびやかに居並んで居る処に、信長先ず焼香の為に仏前に進んだ。
 今からは織田家の大将である信長が亡父の前に立った姿を見て一堂の者は驚いた。長柄の太刀脇差を三五縄しめなわでぐるぐる巻にし、茶筌ちゃせんにゆった髪は、乱れたままである上にはかまもはかないと云う有様である。そして抹香を一攫ひとつかみに攫んで投げ入れると一拝して帰って仕舞った。信長の弟勘十郎信行の折目正しい肩衣かたぎぬ袴で慇懃いんぎんに礼拝したのとひき比べて人々は、なる程信長公は聞きしに勝る大馬鹿者だと嘲り合った。心ある重臣達は織田家の将来を想って沈んだ気持になって居たが、其中に筑紫からこの寺に客僧となって来て居る坊さんが、信長公こそは名国主となる人だと云ったと伝えられて居る。この坊さんなかなか人を見る目があったと云う事になるわけだが、なにしろ幼年時代からこの年頃にかけての信長の行状はたしかに普通には馬鹿に見られても文句の云い様がない程であった。尾張の治黙じもく寺に手習にやられたが、勿論手習なんぞ仕様ともしない。川からふなを獲って来てふきの葉でなますを造る位は罪の無い方で、朋輩の弁当を略奪して平げたりした。町を通りながら、栗、柿、瓜をかじり、餅をほおばった。人が嘲けろうが指さそうがお構いなしである。
 十六七までは別に遊びはしなかったが、ただ、朝夕馬をけさせたり、鷹野を催したり、春から秋にかけて川に飛び込んだりして日を暮して居た。しかし朋友を集めて竹槍をもって戦わしめたりする時に、褒美を先には少く後から多く与へた事や、当時から槍は三間柄が有利であるとの見解を持って居た事や、更に其頃次第に戦陣の間に威力を発揮して来た鉄砲の稽古に熱心であった事などを見ると、筑紫の坊さんの眼識を肯定出来そうである。
 この様に何処かに争われない処を見せながらも、その日常は以前と異なる事がなかった。
 平手中務なかつかさ政秀は信長のお守役であるが、前々から主信長の行状を気に病んで居た。色々といさめては見るものの一向に験目ききめがない。そのうちにある時、政秀の長男に五郎右衛門というのがあって、好い馬を持って居たのを、馬好きの信長見て所望した処、あっさりと断られてしまった。親爺も頑固なら息子も強情だと、信長の機嫌が甚だよくない。政秀之を見て今日までの輔育が失敗して居るのに、更にまた息子の縮尻しくじりがある。此上は死を以って諫めるほかに道はないと決意して、天文二十二年うるう正月十三日、六十幾歳かの雛腹いて果てた。
 その遺書には、
 心を正しくしなければ諸人誠をもって仕えない、ただ才智ばかりでなく度量を広く持たれます様に、
 無慾にして依古贔屓えこひいきがあってはならない、能才を見出さなければならない、
 武のみでは立ちがたいものである、文を修められますように、
 礼節を軽んぜられませぬように、
 等々の箇条があった。
 信長涙を流して悔いたけれども及ばない。せめてと云うので西春日井郡小木おぎの里に政秀寺という菩提寺を建て寺領二百石を附した。(後に清須に移し今は名古屋に在る)
 信長鷹野で小鳥を得ると、政秀この鳥を食えよと空になげ、小川のほとりに在っては政秀この水を飲めよと叫び涙を流した。
 政秀の諫死かんしによって信長大いに行状を改めたが同時に、その天稟てんびんの武威を振い出した。
 十六歳の時から桶狭間おけはざま合戦の二十七歳までは席の安まる間もなく戦塵をあびて、自らの地盤を確保するに余念がなかった。
 元来織田氏の一族は屋張一帯に拡がって居て各々割拠して居たのだが、信長清須の主家織田氏をしのぐ勢であったので、城主織田彦五郎は、斯波しば義元を奉じて、同族松葉城主織田伊賀守、深田城主織田左衛門じょう等と通じて一挙に信長を滅そうとした。信長、守山に在る叔父孫三郎信光と共に、機先を制して天文二十一年八月十六日、那古野に出で三方より清須城を攻めた。翌年になってついに清須を落して自らうつり住し、信光をして郡古野に、その弟信次を守山に居らしめた。処がこの守山(清須から三里)に居る信次が弘治元年の夏家臣と共に川に釣に出かけた時に、一人の騎士が礼もしないで通り過ぎたのを、怒って射殺した事がある。殺してみた騎士が信長の弟の秀孝であったので、信次は仰天してそのまま逃走して仕舞った。秀孝の兄の信行は之を聞いて末森から馳せて守山に来り城下を焼き払い、信長また清須から馬を馳せつける騒ぎであった。
 さてまたこの信行であるが、末森城に於て重臣林通勝、柴田勝家等に鞠育きくいくされて居たが、老臣共は信長の粗暴を嫌って信行に織田の跡を継せようと企てた。しかし信長とのいくさでは直に破れたので一旦許を乞うた。信長も許したがなおも勝家等の諫を聴かずしてそむこうとしたので、ついに信長、はかりごとをもって之を暗殺した。弘治二年十一月のことである。
 更に異母兄に当る織田信広や、岩倉城主織田信安等の叛乱があったが、みな信長に平定せられた。
 以上は皆同族の叛乱であるが、この外に東隣今川氏の部将との交渉がある。愛知郡鳴海の城主で山口左馬助と云うのが織田信秀の将として今川氏に備えて居た。信秀が死んで信長の代になると、信長頼むに足らぬと考えたかどうか叛いて今川氏について仕舞った。そして愛知郡の笠寺と中村に城を築き、自分は中村に、今川の将戸部豊政を笠寺に、自分の子の九郎二郎を鳴海に居らせた。信長棄てて置かれないので天文二十一年自ら来って攻めたけれども却って破られたので、勢を得たのは左馬助である。大高、沓掛くつかけ等をも占領した。信長は今度は笠寺を攻めて見たが豊政驍勇ぎょうゆうにして落城しそうもない。そこで信長は考えた末、森可成よしなりを商人に化けさせて駿河に潜入させ、義元に豊政のことを讒言ざんげんさせた。義元正直に受取って豊政を呼び返して殺し、次いで左馬助をも疑って、之も呼び寄せて殺してしまった。
 旧主に叛いた左馬助としてみれば因果応報であるが、信長も相当に反間を用いている。尤も乱世の英雑で反間を用いない大将なんて無いのであるから、特別の不思議はない筈であるが。
 とにかく、この様な苦闘を経て、漸く勢を四方に張ろうとして来た信長と、駿遠参三ヶ国を擁して、西上の機を窺って居た今川義元とが、衝突するに至るのは、それこそ歴史上の必然であったわけだ。

       今川義元の西進

 群確割拠の戦国時代は一寸見には、いたずらに混乱した暗黒時代の様に見られるけれども、この混乱の中に、おのずから統一に向おうとする機運が動いて居るのを見逃してはなるまい。英雄豪傑が東西に戦って天下の主たろうと云う望を各自が抱いて居るのは、彼等の単なる英雄主義の然らしめたことではなくて、現実に、政治上からも経済上からも、統一の機運に乗じようと考えた処からである。此時代になって、兵農の分離は全く明かになり、地方的な商業も興り、足利時代に盛になった堺を始めとして、東の小田原、西の大阪、山口等次第に都会の形成をも来して来たのであるが、此ときに当って、小さく地方に、自分丈の持前を守って居ようなど考えて居る者達は、より大なろうとして居る強者の為にもみつぶされて仕舞うことになる。志ある者は必ず上洛して、天子の下に、政治経済の権を握って富強を致そうと望むのが当然である。こうして西上の志あった者に、武田信玄があり上杉謙信があった。今川義元も亦、三大国を擁して西上の志なかるべからんやである。
 義元、先ず後顧の憂を絶つ為に、自らの娘を武田晴信の子義信に嫁せしめた。北条氏とも和した。さて、いよいよ西上の段取であるが、三河の西辺の諸豪族、特に尾張の信長を破らなければ、京に至る事は出来ない。そこで、義元は当時駿河の国府に居らせた松平竹千代に、その先鋒を命じた。竹千代即ち、後年の徳川家康である。竹千代不遇であって、始めは、渥美郡牟呂むろ村千石の地しか与えられず、家臣を充分に養う事にさえ苦しんだ。鳥居伊賀守忠吉は自らの財を多く松平家の為に費したとさえ伝えられている。後年三河武士と称された家臣達は何事をも忍んで機の至るを待って居た。義元の命のままに、西上の前軍を承って多くの功績を示したが、義元西上の志が粉砕された事によって、竹千代(弘治二年末義元の義弟、関口親長ちかながむすめをめとる、後元康と称し更に家康と改む)の運命が開れようとは当人も想いつかなかったであろう。
 松平元康が、どんなに優秀な前軍を勤めたかを簡単に示すならば、弘治三年四月には刈屋を攻め、七月大府おおふに向い、翌永禄元年二月には、義元に叛き信長に通じた寺部城主鈴木重教しげのりを攻め、同じく四月には兵糧ひょうろうを大高城に入れた。
 勿論、此頃には信長の方でも準備おさおさ怠りなく手配して居るのであって、かの大高城の如きも充分に監視して、兵糧の入ることを厳重に警戒した。し今川方から大高に兵糧を入れる気配があったら、大高に間近い鷲津、丸根の二城は法螺貝ほらがいを吹き立てよ、その貝を聞いたら寺部等の諸砦は速かに大高表に馳せつけよ、丹下、中島二城の兵は、丸根、鷲津の後詰ごづめをせよと命じて手ぐすねひいて待ち構えて居た。
 四月十七日夜に入ると共に支度をして居た、松平次郎三郎元康は、十八の若武者ながら、大任を果すべく出発しようとした。酒井与四郎正親まさちか、同小五郎忠次、石川与七郎数正等が「信長ならば必ずや城への手配を計画して居る筈である。とても兵糧入れなどは思いもよらぬ」と諫めたけれども、胸に秘策ある元康だから聴く筈がない。一丈八尺の地に黒のあおいの紋三つ附けた白旗七本を押し立てて四千余騎、粛々として進発した。家康は兵八百を率い、小荷駄千二百駄を守って大高城二十余町の処に控えて居た。前軍は鷲津、丸根、大高を側に見て、寺部の城に向い不意に之を攻めた。丁度丑満うしみつ時という時刻なので、信長勢は大いに驚いて防いだが、松平勢は既に一ノ木戸を押し破って入り、火を放ったと思うとさっと引上げた。引上げたと思うと更に梅ヶ坪城に向い二の丸三の丸まで打ち入って同じ様に火の手を挙げる。厳重に大高城を監視して居た、丸根、鷲津の番兵達は、はるかに雄叫おたけびの声がすると思っているうちに、寺部、梅ヶ坪の城にやみをつらぬいて火が挙がるのを見て、驚き且ついぶかった。大高城に最も近い丸根、鷲津を差置いて、寺部なぞの末城を先きに攻める法はないと独合点して居たからである。怪しんで見たものの味方の危急である。取る物も取り合えず、城をほとんど空にして馳せ向った。我計略図に当れりと、暗のうちに北叟笑ほくそえんだのは元康である。このすきに易々いいとして兵糧を大高城に入れてしまった。
 この大高城兵糧入れこそ、家康の出世絵巻中の第一景である。大高城兵糧入れに成功した元康は、五月更に大府に向い八月にはころも城を下した。翌三年三月には刈屋を攻め、七月、東広瀬、寺部の二城を落し、十二月に村木の砦を占領して翌年正月にこれを壊している。
 もうこうなると正面衝突よりないわけである。
 永禄三年五月朔日ついたち今川義元、いよいよ全軍出発の命を下した。前軍は十日に既に発したが、一日おいた十二日、義元子氏真うじざねを留守として自ら府中(今の静岡)を立った。総勢二万五千、四万と号している。掛値をする処は今の支那の大将達と同じである。
 義元出発に際して幾つかの凶兆があった事が伝えられて居る。
 元来義元は兄氏輝が家督を継いで居るので自分は禅僧となって富士善徳寺に住んで居った。氏輝に予が無かったので二十歳の義元を還俗げんぞくさせて家督を譲った。今川次郎大輔だいふ義元である。処が此時横槍を入れたのが義元の次兄で、花倉の寺主良真りょうしんである。良真の積りでは兄である自分が家を継ぐべきなのに、自分丈が氏輝、義元と母を異にして居る為に除者のけものにされたのだと、とうとう義元と戦ったが敗れて花倉寺で自殺したという事があった。
 その花倉寺良真が義元出発の夜に現れ出でた。義元、枕もとの銘刀松倉郷まつくらごうを抜いて切り払った。幽霊だから切り払われても大した事はないのであろうが良真は飛び退いて曰く、「汝の運命尽きたのを告げに来たのだ」と。出陣間際に縁起でもないことをわざわざ報告に来たわけである。義元も敗けて居ずに「汝は我が怨敵おんてきである、どうして我に吉凶を告げよう」、人間でなくても虚言うそをつくかも知れないとやり込めた。良真は「なる程、汝は我が怨敵だ、しかし今川の家が亡びるのが悲しくて告げに来たのだ」と云いもあえず消えてなくなった。
 其他に、駿州の鎮守総社大明神に神使として目されていた白狐が居たのが、義元出発の日、胸がさけて死んで居たとも伝える。
 どれも妖語妄誕だから真偽のほどはわからない。義元この戦に勝ったならば、このような話は伝らずにおめでたい話が伝っただろう。
 閑話休題、十五日には前軍池鯉鮒ちりうに、十七日、鳴海に来って村々に火を放った。

 義元は十六日に岡崎に着いて、左の様に配軍せしめた。
岡崎城守備 庵原いおはら元景等千余人
緒川、刈屋監視 堀越義久千余人

 十八日には今村を経て沓掛に来り陣し、ここで全軍の部署を定めた。
丸根砦攻撃   松平元康 二千五百人
鷲津砦攻撃   朝比奈泰能やすよし 二千人
援軍      三浦備後守 三千人
清須方面前進  葛山くずやま信貞 五千人
本軍      今川義元 五千人
鳴海城守備   岡部三信 七八百人
沓掛城守備   浅井政敏 千五百人

 更に大高城の鵜殿うどの長照をして丸根鷲津攻撃の応援をさせる。この鵜殿は先に信長の兵が来り攻めて兵糧に乏しかった時に、城内の草根そうこん木菓を採って、戦なき日は之れを用い、戦の日には、ほんとうの米を与えたと云う勇士である。
 この今川勢の、攻進に対して、織田勢も、準備を全くととのえてあった。すなわち、
鷲津砦   織田信平 四五百人
丸根砦   佐久間盛重もりしげ 同右
丹下砦   水野忠光 同右
善照寺砦  佐久間信辰のぶたつ 同右
中島砦   梶川一秀 同右

 これらの砦は丹下の砦で四十間四方に対して、あとはみな僅に十四五間四方のものに過ぎない。兵も今川勢に比べると比べものにならない位に小勢ではあるが、各部将以下死を決して少しも恐るる色がなかった。
 丸根砦の佐久間大学盛重は徒らに士を殺すを惜んで、五人の旗頭はたがしら、服部玄蕃允げんばのすけ、渡辺大蔵、太田左近、早川大膳、菊川隠岐守に退いて後軍に合する様にすすめたけれども、誰一人聴かなかった。
 永禄三年五月十八日の夜は殺気を山野に満したままけて行った。むし暑い夜であった。

       両軍の接戦、桶狭間役

 むし暑い十八日の夜が明けて、十九日の早朝、元康の部将松平光則みつのり、同正親まさちか、同政忠等が率いる兵が先ず丸根の砦に迫った。かねて覚悟の佐久間盛重以下の守兵は、猛烈に防ぎ戦った。正親、政忠たおれ、光則まで傷ついたと云うから、その反撃のほどが察せられる。大将達がそんな風になったので士卒等は、たちまちにためらって退き出した。隙を与えず盛重等、門を十文字に開いて突出して来た。元康之を望み見て、これは決死の兵だから接戦してはかなわない、遠巻にして弓銃を放てと命じたので、盛重等は忽ちにして矢玉の真ただ中にさらされて、その士卒と共に倒れた。元康の士かけひ正則等が之に乗じて進み、門を閉ざすいとまを与えずに渡り合い、松平義忠の士、左右田正綱一番乗りをし、ついに火を放って焼くことが出来た。元康はそこで、松平家次に旗頭の首七つを、本陣の義元の下に致さしめて、かちを報告させた。義元、我既に勝ったと喜び賞して、鵜殿長照に代って大高城に入り人馬を休息させる様に命じ、長照には笠寺の前軍に合する様命じた。これが両軍接戦のきっかけであるが清須に在る信長は悠々たるものであった。
 前夜信長は重臣を集めたが一向に戦事を議する様子もなく語るのは世俗の事であった。気が気でなくなった林通勝は、進み出て云った。「既に丸根の佐久間から敵状を告げて来たが、義元の大軍にはとても刃向い難い。幸に清須城は天下の名城であるからここに立籠られるがよかろう」と。
 信長はあっさり答えた。「昔から籠城ろうじょうして運の開けたためしはない。明日は未明に鳴海表に出動して、我死ぬか彼殺すかの決戦をするのみだ」と。之を聞いた森三左衛門可成、柴田権六勝家などは喜び勇んで馬前に討死つかまつろうとこたえた。深更になった時分信長広間に出で、さいと云う女房に何時かと尋ねた。夜半過ぎましたと答えると馬に鞍を置き、湯漬を出せと命じた。女房かしこまって昆布勝栗を添えて出すと悠々と食し終った。腹ごしらえも充分である。食事がすむと牀几に腰をかけて小鼓を取り寄せ、東向きになって謡曲『敦盛』をうたい出した。この『敦盛』は信長の常に好んで謡った処である。「……此世は常のすみかに非ず、草葉に置く白露、水に宿る月より猶怪し、金谷かなやに花を詠じし栄華は先立さきだって、無常の風に誘はるゝ、南楼の月をもてあそやからも月に先立て有為の雲に隠れり。人間五十年化転げてんの内をくらぶれば夢幻の如く也、一度ひとたび生をけ滅せぬ物のあるべきか……」
 朗々として迫らない信長のうた声が、林のように静まりかえった陣営にひびき渡る。部下の将士達も大将の決死のほどを胸にしみ渡らせたことであろう。本庄正宗の大刀を腰にすると忽ち栗毛の馬に乗った。城内から出た時は小姓の岩室いわむろ長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎の五騎に過ぎない。そのまま大手口に差しかかると、黒々と一団が控えている。見ると森、柴田を将とした三百余騎である。「両人とも早いぞ早いぞ」と声をかけて置いて、ひた走りにけて熱田の宮前みやまえに着いた時は、その数千八百となって居た。熱田の町口には加藤図書助順盛ずしょのすけよりもりが迎えに出て来て居て、出陣式法の菓子をそなえた。信長は喜んで宮に参り願文がんもんを奉じ神酒を飲んだ。願文は武井入道夕菴せきあんに命じて作らしめたと伝うるもので、
「現今の世相混沌たるを憂えて自ら天下を平定しようと考えて居ます処、義元横暴にして来り侵して居ます。敵味方の衆寡はあだかも蟷螂とうろう車轍しゃてつに当る如く、蚊子ぶんしの鉄牛をむが如きものがあります。願わくば天下の為に神助あらんことを」と云った意味のものであるが、果してこの様な願文を出したかどうか多少怪しい処はあるが、この戦をもって天下平定の第一歩であると考えて居た事は疑あるまいと思われる。
 信長、この時、賽銭さいせんを神前に投げながら、「表が出ればわが勝なり」と云った。神官に調べさせると、みんな表が出たので将士が勇躍した。これは、ぜにの裏と裏とを、のりでくっつけて置いたものでみんな表が出るわけである。
 既にこの頃は夜は全く明け放れて、今日の暑さを思わせるような太陽が、山のを可なり高く昇っている。信長顧みれば決死の将士千八百粛々として附いて来ているが、今川勢は、何しろ十倍を越す大軍である。少しでも味方を多勢に見せなければならないと云うので、加藤順盛に命じて町家から、菖蒲幟しょうぶのぼり木綿切もめんぎれ等を集めさせ、熱田の者に竹棹をつけて一本ずつ持たせ、高い処に指物の様に立たせて、擬兵をつくった。
『桶狭間合戦記』に、
「熱田出馬の時信長乗馬の鞍の前輸と後輸しずわとへ両手を掛け、横ざまに乗りて後輪によりかゝり鼻謡を謡ふ」
 とある。大方、例の『敦盛』と同じように好んで居た「死のうは一定いちじょうしのび草には何をしよぞ、一定かたりのこすよの……」
 と云う小唄でも口ずさんで居たのであろう。決戦間近かに控えてのこの余裕ぶりは何と云っても天才的な武将である。こんな恰好で神宮を出でたつと道路のわきに、年の頃二十ばかりの若者が羽織を着、膝を付けて、信長に声を掛けられるのを待って居る様子である。信長見ると面体すぐれて居るので、何者だと問うと、桑原甚内と云い、嘗つて義元が度々遊びに来た寺の小僧をした事があって、義元をよく見知って居るから、願えることなら今度の戦に義元と引組んで首をとりたいと答えた。信長、刀を与えて供に加えた。毛利新助、服部小平太の両人が之を聞いて、この若者につきそって居て義元に出会おうと考えた。
 今の時間で丁度八時頃、神宮の南、上知我麻祠かみちがまのやしろの前で、はるか南方に当って一条の煙が、折柄のあさひの光に、濃い紫色に輝きながら立ち上るのが見られた。丸根の砦の焼け落ちつつある煙だったのである。人馬を急がせて古鳴海こなるみの手前の街道まで来ると、戦塵にまみれた飛脚の兵に出会った。丸根落ちて佐久間大学、飯尾近江守只今討死と告げるのを信長聞いて、「大学われより一時先に死んだのだ」と云って近習の士に銀の珠数を持って来させ、肩に筋違すじかいにかけ前後を顧みて叫んだ。「今は各自の命を呉れよ」と云うが早いか栗毛に鞭くれてはしり出した。従士達も吾劣らじと後を追うて、上野街道忽ち馬塵がうず巻いた。
 丸根が落ちた後の鷲津も同様に悪戦苦闘である。今川勢は丸根に対した如く、火を放って攻めたので、信平を始め防戦の甲斐なく討死して残兵ことごとく清須を指して落ちざるを得ない状態になった。時に午前十時頃。
 鳴海の方面へたむろして居た佐々政次、千秋季忠すえただ、前田利家、岩室重休しげよし等は信長が丹下から善照寺に進むのを見て三百余人を率いて鳴海方面の今川勢にかけ合ったが衆寡敵せずして、政次、重休、季忠以下五十余名が戦死した。季忠は此時二十七歳であったが、信長あわれんでその子孫を熱田の大宮司になしたと云う。前田利家はこの戦以前に信長の怒りにふれている事があったので、その償いをするのは此時と計り、ただちに敵の首を一つ得て見参けんざんに容れたが信長は許さない。そこで、その首を沼に投げ棄てて、更に一首をひっさげて来たが猶許されなかった。のち森部の戦に一番乗りして、始めて許されたと云う。
 笠寺の湯浅甚助直宗なおむねと云う拾四歳の若武者は軍の声を聞いて、じっとして居れずに信長の乗かえの馬を暫時失敬して馳せ来り敵の一士を倒して首を得たので、大喜びして信長に見せた処が、みだりに部署を離れたとて叱責された。
 惟住これずみ五郎左衛門の士、安井新左衛門家元は鳴海の戦に十七騎を射落して居る。
 この様に信長の将士は善戦して居るのだが、何分にも今川勢は大勢であるから正攻の戦では大局既に信長に不利である。
 政次、重休、季忠三士の首が今川の本営に送られた事を善照寺に在って聞いた信長が切歯して直にその本軍をもって今川軍に向わんとしたのも無理はない。林通勝、池田信輝、柴田勝家等が、はやる馬の口を押えて「敵おおく味方少くあまつさえ路狭くて一時に多勢を押し出す事が出来ないのに、どうして正面からの戦が出来よう」と諫めたが、いささか出陣前の余裕を失った信長は聴かずして中島に渡ろうとした。此時若し信長が中島に渡って正面の戦をしたならば、恐らくは右大臣信長の名を天下に知らしめずに終ったことであろう。丁度、その時、梁田やなだ政綱が放った斥候が、沓掛方面から帰って、「義元は今から大高に移ろうとして桶狭間に向った」旨を報じた。間もなく更に一人が義元の田楽でんがく狭間に屯した事を告げ来った。政綱、信長にすすめるには義元今までの勝利に心おごって恐らくは油断して居ることだろうから、この機を逃さず間道から不意を突けば義元の首を得るであろうと。今まで駄々をこねて居た信長は流石名将だけに、直に政綱の言に従って善照寺には若干兵を止め旗旌きせいを多くして擬兵たらしめ、自らは間道より田楽狭間に向って進んだ。此日は朝から暑かったが昼頃になって雷鳴と共に豪雨が沛然はいぜんと降り下り、風は山々の木をゆるがせた。為に軍馬の音を今川勢に知られる事もないので熱田の神助とばかり喜び勇んで山路やまじを分け進んだ。
 外史氏山陽が後に詠んだのに、
将士銜しょうしはばいをふくみ馬結うまはしたをむすぶ
桶狭如おけはざまおけのごとく雷擘裂らいへきれっす
驕竜喪きょうりゅうもとをうしない敗鱗飛はいりんとぶ
めんをうつ腥風雨耶血せいふうあめかちか
一戦始開撥乱機いっせんはじめてひらくはつらんのき
万古海道戦氛滅ばんこかいどうせんふんめっし
唯見血痕紅紋纈ただみるけっこんくれないにぶんけつするを

笠寺の山路ゆすりしゆふたちの
  あめの下にもかゝりけるかな
 これは幕末の井上文雄の歌である。
 信長等が予想して居た通りに義元、頻々ひんぴんたる勝報に心喜んで附近の祠官、僧侶がお祝の酒さかなを取そろえて来たのに気をよくして酒宴をもよおして居た。
 此時の義元の軍装は、赤地の錦の直垂ひたたれ、胸白の具足、八竜打った五枚冑を戴き、松倉郷、大左文字だいさもんじの太刀脇差を帯びて居た。この大左文字はすぐに信長に分捕られた上にその銘に、表には永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀うちとるかれのしょじのとうにこくす、裏には織田尾張守信長と刻込まれて仕舞った。義元の酒宴たけなわである頃信長の兵は田楽狭間を真下に見る太子ヶ根の丘に在った。田楽狭間は桶狭間へ通ずる一本道の他は両側共に山で囲まれて居る。こうなると義元は袋のなかの鼠である。丘上で信長馬から下りて斬り込むかと議すると森可成馬のまま馳せ下るがよろしいと答えたが、丁度昼頃になって風雨がやや静ったのを見計って、一度にどっと斬り込んだ。義元の本営では、まさか信長がこの様な不意に出ようとは想って居ないので、味方同志の争が起った位に最初は考えて居たが、騒は益々大きくなる計りである。義元兵を制しようと帷幕いばく[#ルビの「いばく」は底本では「いぼく」]を掲げた処を例の桑原甚内が見付けてかかったが近習の士の為にさえぎられて斬られた。甚内に附きまとって来た服部小平太がこの中にまぎれ込んだのを、義元味方と間違えて馬を引けと命じたので、さてこそ大将と槍で脇腹を突いた。義元流石に屈せずに槍の青貝の柄を斬り折ると共に小平太の膝を割ったので小平太はのめって仕舞った。同じく義元の首をねらった毛利新助が名乗って出るや義元に組付いて首をとろうとあせった。頭を押え様とあせった新助は左手の人差指を義元の口に押し込んだのをみ切られながら、とうとう首を挙げた。不意を討たれた上に大将が討死しては衆も寡もない。今川勢は全く浮足たって仕舞った。
 今川の部将、松井宗信、井伊直盛等が本営の前方十町計りの処に屯して居たが、急を聞いて馳せ戦ったが悉く討死して果てた。
 一説には、本営破れた時、庵原左近、同庄次郎が馳せ来り、事急であるから義元に大高に移られる様にと云って十二三騎で行くのを襲われたとも伝えられる。
 一挙に勝を収めた信長は、敢て今川勢を遠く追わずに、直に兵を間米まごみ山に集め義元の首を馬の左脇にさげて、日暮には清須に引上げた。まさに、神速なる行動である。熱田の宮では拝謝して馬を献じやしろを修繕することを誓った。
 凱旋の翌日、た首を検したのに二千五百余あった。下方しもかた九郎左衛門が生擒いけどりにした権阿弥ごんあみをして首を名指さしめた。
 清須から、二十町南須賀、熱田へゆく街道に義元塚を築き大卒塔婆を建て、千部経を読ませたと云う。
 義元の野心煙と散じた一方、信長は地方の豪族からして一躍天下に名を知られた。
 義元が逸した天下取りのチャンスは、はからずも信長の手に転がり込んで来たのである。

       結末並に余説

 この戦に於て、敗軍に属しながら、かえって不思議に運を開いたのが松平元康、後の徳川家康である。元康は五月十九日の朝、丸根をおとした後大高に居ったが、晩景になって義元の敗報が達した。諸士退軍をすすめたが、元康し義元生きて居たら合わす顔がないとて聞かない。処に伯父水野信元が浅井道忠を使として敗報をもたらしたので、元康は部下をしてその真実であることを確めた後、十九日の午後十一時すぎ月の出を待って道忠を案内として三河に退陣したが、土寇に苦められながらやっと岡崎に着いた。着いて見ると岡崎城の今川勢は騒いで城を明け退いていたので、元康すて城ならば入らうと云ってここに居った。後永禄五年五月、水野信元のとりなしで信長と清須城に会して連合を約し、幼少から隠忍した甲斐あって次第に勢を伸す基礎を得た。元康、義元への義を想って子の氏真にとむらい合戦をすすめたけれども応ずる気色もなかった。義元は、信長の為に一敗地にまみれたとは云え三大国を領するに至っただけにどこか統領の才ある武将であったが、子の氏真に至っては全く暗愚であると云ってよい。義元が文事を愛した話の一つに、ある戦に一士を斥候に出した処が、間もなくその士が首を一つ獲て帰った。義元は賞せずして反って斥候の役を怠ったとして軍法をもって処置しようとした。
 その士うなだれたまま家隆の歌、
苅萱かるかやに身にしむ色はなけれども
   見て捨て難き露の下折
 とつぶやいたのを聞いて、忽ち顔の色をやわらげたと云うことである。地方の大豪族である処から京の公卿くげ衆が来往することが屡々しばしばであったらしく、義元の風体もおのずからみやびやかに、髪は総髪に、歯は鉄漿かねで染めると云う有様であった。その一方には今度の戦で沓掛で落馬した話も忘れられてはならない。しかし、とも角文武両道に心掛けたのは義元であるが、氏真と来ては父の悪い方丈しか継いで居なかった。
 義元死後も朝比奈兵衛大夫のほか立派な家老も四五人は居るのであるが、氏真、少しも崇敬せずして、三浦右衛門義元と云う柔弱にゅうじゃくの士のみを用いて、おどり酒宴に明け暮れした。自分が昔書いた小説に『三浦右衛門の死』と云うのがあるが、あんな少年ではなかったらしい。自分の気に入った者には、自らのめかけを与え、裙紅つまべにさして人の娘の美しいのに歌を附けたりまるで武士の家に生れたことなぞは忘却の体である。かの三浦の如きは、桶狭間の勇士の井伊直盛の所領を望んだり、更に甚しくは義元の愛妾だった菊鶴と云う女を秘かに妻にしたりしながら国政に当ると云うのだから、心ある士が次第に離れて今川家衰亡の源を作りつつあったわけである。
 天文二十二年に義元が氏真を戒めた手紙がある。
「御辺の行跡何とも無分別むふんべつに候、行末何になるべき覚悟に……弓馬は男の業也わざなり器用も不器用も不入候可いらずそうろうべく稽古事也、国をおさむ文武二道なくては更にかなうべからず候、……其上君子おもからずんばすなわち威あらず義元事は不慮の為進退軽々しき心持候。さあるからに親類以下散々に智慮外の体見及候得共みおよびそうらえども我一代は兎角の義に及ばず候とおもい、上下の分も無き程に候へ共覚悟前ならば苦しからず候、氏真までかくごとくにては無国主と可成なるべく候、能々よくよく此分別これあるべし……」
 義元が自らの欠点をさらけ出して氏真を戒めて居る心持は察するに余りある。

 義元が文にかって居た将とすれば、信長はむしろ真の武将であった。戦国争乱の時には文治派より武断派の方が勝を制するのは無理のない話である。信長、印形いんぎょうを造らせた事があるが自らのには「天下布武」、信孝のには「戈剣かけん平天下」、信雄のには「威加海内かいだいにくわわる」とした。もって信長の意の一端を伺うに足りる。
 しかし武断一点張りでなかった事は、暗殺しようとした稲葉一徹が、かの『雪擁藍関ゆきはらんかんをようし』の詩をよく解したと云う一点で許した如き、義元が一首の和歌の故に部下を許した、好一対の逸話をもっても知られる。
 幼少より粗暴であったと云う非難があるが、勿論性格的な処もあるにしろ、おのずからそこに細心な用意が蔵されて居たのを知らなければならぬ。
 又一方からは、足利末期の形式化された生活に対する革命的な精神の発露と見られる点もあるのである。
 細心であったことは人を用うる処にも現れている。信長の成功と義元の失敗とはその一半を能材の挙否に帰してもよかろう。
 近い例でこの桶狭間の役に梁田出羽守には、善き一言よく大利を得しめたと云って沓掛村三千貫の地を与えたが、義元の首を獲た毛利新助はその賞梁田に及ばなかった。賞与の末に於てさえ人の軽重を見るを誤らなかった。
読史とくし余論』の著者新井白石が、そのなかで信長成功の理由を色々挙げたうちに、
応仁の乱後の人戦闘を好みて民力日々に疲れ、国財日々乏しかりしに備後守信秀沃饒よくじょうの地につて富強の術を行ひ耕戦を事とし兵財共に豊なりしに、信長其業をつぎ、英雄の士を得て百戦の功をたつ。其国四通の地にして、京師けいしに近く且つ足利殿数十代の余光をかりて起られしかば威光天下に及ぶ。
 と云って居るが、当を得た評論であろう。





底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
   1987(昭和62)年2月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際の「ヶ」(区点番号5-86)(「三ヶ国」)を大振りに、地名などに用いる「ヶ」(「梅ヶ坪城」等)を小振りにつくっています。
※底本では本文が「新字新仮名」引用文が「新字旧仮名」ですが、ルビは「新仮名」を共通して使用していると思われますので、ルビの拗音・促音は小書きにしました。
入力:網迫、大野晋、Juki
校正:土屋隆
2009年7月19日作成
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