長篠合戦

菊池寛




 元亀三年十二月二十二日、三方みかたヶ原の戦に於て、信玄は浜松の徳川家康を大敗させ、殆ど家康を獲んとした。夏目次郎左衛門等の忠死なくんば、家康危かった。
 信玄が、三方ヶ原へ兵を出したのは、一家康を攻めんとするのではなく、三河より尾張に入り岐阜を攻めて信長を退治し、京都に入らんとする大志があったからだ。
 だから、三方ヶ原の大勝後その附近の刑部おさかべにて新年を迎え、正月十一日刑部を発して、三河に入り野田城を囲んだ。が、城陥ると共に、病を獲て、兵を収めて信州に入り、病を養ったが遂に立たず老将山県昌景まさかげを呼んで、「明日旗を瀬田に立てよ」と云いながら瞑目した。
 信玄死後しばらく喪を秘したが、いくら戦国時代でも、長く秘密が保たれるものではない。
 信玄に威服していた連中は、後嗣の勝頼頼むに足らずとして、家康に※(「肄のへん+欠」、第3水準1-86-31)かんを通ずるものが多い。その最たるものは、作手つくりて城主奥平貞昌父子だった。
 奥平家は、その地方の豪族だが、初め今川に属し、後徳川に附き、更に信玄に服し、今度勝頼にそむいて、徳川に帰順したわけである。大国と大国との間に挾まる小大名、豪族などは一家の保身術として、彼方あちらにつき此方に付く外なかった。うまく、游泳してよい主人についた方が、家を全うして子孫の繁栄を得たわけである。
 勝頼は、自分の分国の諸将が動揺するのを見、憤激して、天正二年正月美濃に入って明智城を攻略し、同じく五年には遠江に来って、高天神城を開城せしめた。家康は、わずか十里の浜松にありながら後詰せず、信長は今切のわたしまで来たが、落城と聞いて引き返した。
 勝頼の意気軒昂たるものがあったであろう。徳川織田何するものぞと思わせたに違いない。それが、翌年長篠ながしのに於て、無謀の戦いをする自負心となったのであろう。
 翌天正三年二月、家康は新附の奥平貞昌をして、長篠城の城主たらしめた。
 長篠城は、甲信から参遠へ働きかける関門である。武田徳川二氏に依って、屡々しばしば争奪されたる所以ゆえんである。城は、豊川の上流なる大野川滝川の合流点に枕している。両川とも崖壁急で、畳壁の代りを成している。東は大野川が城濠の代りをなし、西南は滝川が代りを成している。
 天正三年五月勝頼一万五千の大軍を以て、長篠を囲んだ。城兵わずかに五百、殊死して防いだ。
 鳥井強右衛門勝商すねえもんかつあきが、家康の援軍を求めるため、単身城を脱し、家康にまみえて援兵を乞い、直ちに引き返して、再び城に入らんとし、武田方にとらわれ、勝頼をあざむいて城壁に近より、「信長は岡崎まで御出馬あるぞ、城之介殿は八幡はちまんまで、家康信長は野田へ移らせ給いてあり、城堅固に持ちたまえ、三日のうち運を開かせ給うべし」と叫んで、はりつけにせられたのは、有名な話であるから略する。
 五月十八日、信長家康両旗の援軍三万八千、長篠の西方設楽しだらの高原に、山野に充ちて到来した。
 しかし、此の時の武田の軍容は、信玄死後といえども、落ちていたのではない。信玄が死んでいる事さえ半信半疑で、戦前稲葉一徹が家康に向い、万一信玄が生きていて、不意に打って出たら、どうするかと云い出して、信長に叱られた位である。
 とにかく、武田の武名は、迷信的に恐がられていたのである。信長の出発に際して之を危んだ旗下きかの諸将多く、家康も必勝を期せず、子信康を岡崎に還らしめんとした位である。
 織田徳川の軍勢、設楽の高原に着くや、信長(此時四十二歳)自らは柴田勝家を従えて、設楽村極楽寺山に本陣を据えた。嫡男信忠(年十九)は河尻秀隆を従えて、矢部村勅養寺附近の天神山に、次男北畠信雄は稲葉一徹属して御堂山に、夫々陣をいた。更に川上村茶臼山には、佐久間右衛門尉うえもんのじょう信盛、池田庄三郎信輝、滝川左近将監一益、丹羽長秀なんぞの勇将が控え、以上四陣地の東方には、蒲生忠三郎氏郷うじさと、森庄蔵長可ながよし、木下藤吉郎秀吉、明智十兵衛光秀等が陣した。都合総勢三万である。浅井朝倉を退治した信長は、此一戦大事と見てオールスター・キャストで来ているのである。
 家康(年三十四)は竹広村弾正山に、三郎信康(年十七)は草部村松尾大明神鎮座の山に布陣した。これが本営であって、左翼の先陣は大久保忠世ただよ兄弟、本多忠勝、榊原康政承り、右翼の軍には石川数正、酒井忠次、松平忠次、菅沼定利、大須賀康高、本多忠次、酒井正親まさちか等あり、総勢八千である。信長かねてから武田の戦法を察し、対抗の戦略を立てた。元来信玄の兵法は、密集の突撃部隊を用いて無二無三に突進し、敵陣乱ると見るや、騎馬の軍隊が馳せ入ると云う手段であって、常にこの戦法の下に勝を収めて来たのである。信長は、この武田勢との正面衝突を避けた上に、新鋭の武器鉄砲を以て狙撃しようとした。これ信長の新戦術である。北は丸山、大宮辺から南は豊川の流れ近い竹広あたりまで二十余町の間、二重二重に乾堀からぼりを掘り土手を築き、且つ三四十間置きに出口のある木柵を張りめぐらしめた。この土手と柵とに拠って武田勢の進出をはばみ、鉄砲で打ちひしごうと云うのであるが、岐阜出陣の時、既に此の事あるを予期して、兵士に各々柵抜を持たしめたと云う。鉄砲は当時五千余を持ち来ったと云うが、この新鋭の武器に対して、信長がかかる関心を持っていたのに対して、勝頼は父信玄の旧法を維持する事をのみ知って、余り注意を払って居なかった事は、鉄砲入手の便が、信長勝頼の両地に於て著しい相違があったとは云え、武田家の重大な手落であった。弓矢とっての旧戦法が、新しい銃器の前には、如何に無力であるかを、長篠の役は示して居るのである。
 織田徳川の戦陣が整うのを見て、十九日、勝頼もいくさ評定をした。自ら曰く、「総軍をして滝川を渡り清井田原に本陣を移し、浅木、宮脇、柳田、竹広の線に於て決戦せん」と。信玄以来の宿将、馬場美濃守信房、内藤修理昌豊、山県三郎兵衛昌景まさかげ等は、これを不可であるとした。彼等は、既に中原ちゅうげんに覇をとなえて居た信長と、海道第一の家康の連合軍が、敗れ難い陣容と準備とをもって来ったのを見抜いて居た。
 内藤等は退軍をすすめ、し敵軍跡を追わば、信州の内に引入れて後戦うがよいとした。勝頼は聴かない。そこで馬場等は、では長篠城を攻め抜いた後に退けば、武田の名にも傷つくまい。今城に鉄砲五百あるとして、味方の攻撃の際、最初五百の手負が生ずるであろう。二度目の時はそれ以下ですむ。かくして千を出でない犠牲で、武田の家名を傷つけないで退く事が出来るが、あまりに武田の武力を自負している勝頼は跡部大炊助勝資おおいのすけかつすけの言を聴いて許さない。非戦論者達は、では長篠城を抜いて勝頼を入れ、一門の武将は後陣となり、我等三名は川を越えて対陣し、持久の策を採らば、我軍の兵糧に心配ないのに対して、敵軍は事を欠いて自ら退陣するであろう、と云った。跡部等は、何で信長ほどの者が引返そうや、先方から攻め来る時は如何、と反対するので、馬場等はその時は止むを得ない、一戦するまでである、と答えた。跡部等は嘲けって、その期に及んで戦うも、今戦うも同じである、とやり返した。勝頼、今は戦うまでである、御旗、無楯たてなしに誓って戦法を変えじ、と云ったので、軍議は決定して仕舞った。旗とは義光以来相伝の白旗、無楯とは同じく源家重代のよろい八領のうちの一つ、共に武田家の重宝であって、一度、これに誓う時は、何事も変ずる事が出来ないおきてであったのである。かくて信玄以来の智勇の武将等の諫言かんげんも、ついに用いられず、勝頼の自負と、跡部等の不明は、戦略を誤り、兵数兵器の相違の上に、更に戦略を誤ったのである。勝頼は決して暗愚の将では無かったのだが、その機略威名が父信玄に遠く及ばない上に、良将を率い用いる力と眼識が無く、かく老将を抑えて自分を出そうとする我執がある。旗下の諸将との間が、うまく行かなかった事は彼の為に惜しむべきであった。跡部等が強硬に一戦を主張した裏には、信長の用間ようかんに陥り、佐久間信盛が戦い半ばにして裏切ることを盲信して居たからだとも伝えるが、この事は単なる伝説であろう。また跡部と共に勝頼の寵を専らにした長坂釣閑が、馬場、内藤等と争って事を誤たしむるに至ったとも云うが、長坂は此の時他の方面に出動していたから、後世史家の悪口である。長坂、跡部共に、新主勝頼の寵を誇って専断多かった事は事実らしいが、必ずしも武田家を想わざる小人輩とは為し難い。長坂は、勝頼と天目山に最期を共にして居るのである。跡部もとにかく天目山迄は同行しているのである。その時に残った侍衆は四五十人だったと云うから、跡部も相当忠義な家来であると云ってよい。ただ彼等の智略が、馬場、内藤、山県等に及ばなかった事、既に前年、争論の結果、相反目して居た。この戦の前年即ち天正二年の末、山県の宿しゅくで馬場、内藤及び高坂昌隆の四人が小山田佐兵衛信茂、原隼人佐はやとのすけを加えて、明年度の軍事を評議した事があった。其処へ兼々かねがね勝頼の側姦の士と白眼視された長坂、跡部の両人がやって来た。短気な内藤は、「此席は機密な軍議の場である。信玄公しゅっするの時、武田家の軍機は我等四人内密に行うべきを遺言された。この大事の席に何事だ」と怒鳴ると、長坂は「勝頼一両年中に、織田徳川と決戦する覚悟である旨を受けて、軍議の処に来た」と答えた。内藤大いに怒って、「この野狐奴のぎつねめが、主君をそそのかして、無謀の戦を催し、武田家を亡ぼそうと云うのか。柄にない軍事を論ずる暇があらば、三嶽の鐘でもたたけ」とののしった。長坂もいかり、刀に手をかけた処、内藤は、畜生を斬る刀は持たぬとてさやぐるみで打とうとしたのを、人々押止めたと云う事がある。こんな遺恨から、今度の軍評定の席でも、両々相争ったわけだが、非戦論者ついに敗れたので、馬場等は、大道寺山の泉を、馬柄杓で汲みかわし、決死をちかった。非戦諭者はそれでもあきらめられずに、二十一日の決戦当日の朝、同じ非戦諭の山県昌景を代表として、勝頼に説かせたが、勝頼は「いくつになっても命は惜しいと見えるな」と皮肉を云って取合わない。奮然として退いた昌景は、同志の面々が集まって居る席に来て「説法既に無用、皆討死討死」と云い棄てて、縁側から馬に打乗り、かぶとの緒をしめるを遅しと戦場に馳せ向ったと云う。
 勇将猛士が非戦論である戦争が、うまく行くわけはない。みんな討死の覚悟を以て、無謀の軍と知りながら戦ったのである。
 勝頼戦いを決するや、長篠城監視を小山田昌行、高坂昌澄等二千の兵をもって為さしめ、とびヶ巣の塁以下五つの砦には兵一千を置いた。そして次の如き布陣を行った。織田徳川勢に対して正々堂々の攻撃を為すつもりである。即ち、浅木附近大宮おもてへは馬場美濃守信房先鋒として、部将穴山陸奥守梅雪(勝頼の妹聟)以下、真田源太左衛門信綱、土屋右衛門昌次、一条右衛門大夫信就たいふのぶなり等、中央、下裾しもすそ附近柳田表へは、内藤修理昌豊を先鋒となし、部将武田逍遥軒信廉のぶかど(信玄の弟)、原隼人佐、安中昌繁等。又竹広表へは、先鋒山県三郎兵衛昌景承り部将武田左馬助信豊(信玄弟の子)、小山田右兵衛うひょうえ信茂、跡部大炊助勝資等。勝頼自らは、前衛望月右近、後衛武田信友、同信光等と共に清井田原の西方に陣した。各部隊共兵三千、総軍一万五千である。各部隊の長は皆勝頼の一門であるが、揃っていずれも勝れた大将でもなく、この戦い敗れた後は命全うして信州へ逃げ帰った。それに引代え、軍の先鋒は信玄の秘蔵の大将であり、其他の将士も皆音に聞えた猛士であるが、この戦に殆んどすべて討死して仕舞った。智勇の良将を失った勝頼は爪牙を無くした虎の如く再び立ち得なかったのも当然である。
 戦機いよいよ熟した二十日の夜である。織田の陣中に於て、最後の軍評定が開かれた。陣中の座興にと、信長、家康の士酒井左衛門尉忠次に夷舞えびすまいを所望し、諸将えびらを敲いてはやした。充分の自信があったのであろう。落付き払った軍議の席である。いよいよ評定に入るや、かの好漢忠次真先に、鳶ヶ巣以下の諸塁を夜襲し、併せて武田勢の退路を断たんことを提議した。信長、迂愚の策を、上席に先んじて口に出したと、怒って退出したが、ひそかに忠次を呼び入れて、「汝の策略は最も妙、それ故に他に洩れるのを慮って偽り怒ったのだ」と云って秘蔵の瓢箪板ひょうたんいたの忍びぐつわを与えた。忠次勇躍して、本多豊後守広孝、松平主殿助伊忠とのものすけこれただ、奥平監物貞勝等と共に兵三千、菅沼新八郎を教導として進発した。松山越の観音堂の前で各々下馬して、甲冑かっちゅうを荷って嶮所をよじたが、宵闇ではあるし行悩んだ。忠次、そこで案内者を先に行かしめ、木の根に縄を結び付け、これにとり付いて一人ずつ登って行かせた。菅沼山に勢揃するに一人の落伍者もなく着いた。つまりロック・クライミングをやったわけである。甲冑を着けると、鳶ヶ巣目がけて一勢に突撃した。本当は、旗本の士天野西次郎、一番槍であったが、戸田半平重之しげゆきと云う士、此戦い夜明に及ぶかと考え、銀の晒首さらしくびの指物して乗り込んだのが、折柄のおそい月の光と、塁の焼ける火の光とで目覚しく見えた為に一番槍とされた。夜討の事だから誰も指物はなかったのであるが、半平だけ指物を持っていたので得をしたのである。塁の焼ける火が長篠の城壁に光を投げたが、夜襲成功と見て、城将貞昌は、大手門を一文字に開いて之を迎えた。奥平美作守貞能さだよし一番乗であったが、陣中に貞勝、貞能、貞昌、父子無事の対面は涙ながらであったと伝える。武田の本軍、鳶ヶ巣以下の落城を知ったが、敵軍を前にして今更騎虎の勢い、退軍は出来ない。天正三年五月二十一日の暁時(丁度五時頃)武田の全軍は行動を開始した。初夏の朝風に軍馬はいななき、旗印ははためいて、戦機は充満した。此時、織田徳川方では丹羽勘助氏次うじつぐ等を監軍とし、前田又左衛門利家等が司令する三千の鉄砲組が、急造の柵に拠って、武田勢の堅甲を射抜くべく待ち構えて居たのである。丸山、大宮を守る佐久間右衛門尉が五千騎に向って、浅木辺より進軍する武田勢三千、その真先に、白覆輪の鞍置いた月毛の馬を躍らし、卯の花おどしの鎧に錆色の星冑鍬形くわがた打ったのを着け、白旗の指物なびかせたおい武者がある。武田の驍将馬場美濃守信房である。手勢七百を二手に分けると見ると、さっと一手を率いて真一文字に突入って、忽ち丸山を占領して仕舞った。そして新手を丸山の前に備えた。神速の行動に、もろくも一の柵を破られたので、明智十兵衛光秀、不破河内守等が馳せ来って応援したが、既にこの時は、二の柵まで押入られた。しかし信房の兵も鉄砲の弾に中って忽ちにして二百余人となったが、信房少しも驚かず、二の柵を取払った。真田源太左衛門信綱、同弟兵部丞ひょうぶのじょう、土屋右衛門尉等が、信房に退軍をすすめに来た時には、僅か八十人に討ちなされて居た。信房は真田兄弟が防戦する間に退いた。明智の部下六七人が、真田兄弟の働き心にくしと見て迫るのを、兵部丞にっこり笑って、「滋井しげいの末葉海野うんの小太郎幸氏が後裔真田一徳斎が二男兵部丞昌綱討ち取って功名にせよ」と名乗るや三騎を左右に斬って棄てた。自分も弾に中って死んだのだが、兄源太左衛門も青江貞次三尺三寸の陣刀をふりかぶりふりかぶり、同じ所で討死した。土屋右衛門尉も、池田紀伊守、蒲生忠三郎の備えを横合から突崩した。側の一条右衛門大夫信就に向って云うには、「それがしは先月信玄公御法事の時殉死を遂げんとした処高坂昌澄にいさめられて本意なく今日まで存命した。今日この場所こそは命の棄て処である」と。進んで三の柵際まで来て、自ら柵を引抜き出した。大音声で名乗りを挙げるが、織田勢その威に恐れて誰も出合わない。雨の様な弾丸は、右衛門尉のかぶとに五つ当った。年三十一で討死である。
 此手の大将馬場信房は、一旦退いたものの直ちに引返して、手勢わずか八十をもって三の柵際に来り、前田利家、野々村三十郎等の鉄砲組の備えを追散らして居た。勇将のもと弱卒なしである。が、敵は近寄らずに、鉄砲で打ちすくめようとするのである。一条右衛門大夫来って退軍をすすめた。もう此時分には、信房の右翼軍ばかりでなく、中央の内藤修理の軍も、左翼の山県三郎兵衛の軍も、敵陣深く攻め入りながらも、いずれも鉄砲の威力の前、総崩れになろうとして居たのである。一条の勧めに対して信房は、「勝頼公の退軍に殿しんがりして討死仕ろう」と答えた。猿橋えんきょう辺から出沢すざわにかけて防戦したが、勝頼落延びたりと見届けると、岡の上に馬を乗り上げ、「六孫王経基つねもとの嫡孫摂津守頼光より四代の孫源三位頼政の後裔馬場美濃守信房」と名乗った。ばん九郎左衛門直政の士川井三十郎突伏せて首を挙げたが、信房は敢て争わなかった。年六十二。自らの諫言を取り上げなかった主勝頼の為に、ついに老骨を戦場にさらしたわけである。十八の初陣から今まで身に一つの傷を負わないと云う珍しい勇将であるが、或時若き士達に語って曰く、
一、敵方より味方勇しく見ゆる日は先を争い働くべし。味方臆せる日はひとり進んで決死の戦いをすべし。
二、場数ある味方の士に親しみ手本とす。
三、敵の冑の吹返しうつむき、指物動かずば剛敵、吹返し仰むき、指物動くは、弱敵なり。
四、槍の穂先上りたるは弱敵、下りたるは剛。
五、敵勢盛んなる時は支え、衰うを見て一拍子に突掛るべし。
 と教えたと云う。
 中央の内藤修理の軍の働きも華々しいものであったが、結局は馬場信房の軍と同じ運命に陥らざるを得なかった。滝川左近将監四千余をもって佐久間の右手柳田に備えて居るのを、修理千五百を率いて押し寄せ、忽ちに一の柵を踏み破った。佐久間、滝川両軍の浮足を見て居た家康は、使をやって柵内に入り防禦すべく命じた。剛情我儘わがままの佐久間は怒って、「戦わずして崩れるのを、武田家では見崩みくずれと称して大いに笑うものだ」と力み返った。家康これはいかんと云うので、自ら馬を飛して信長に事の次第を語った。信長直ちに使をやっていましめようとしたが時既に遅く、両軍敗退の最中であった。修理は原隼人佐、安中左近、武田逍遙軒と共に、一の柵を馬蹄に蹴散らしたが、信長勢は二の柵に入り込んで、鉄砲ばかりを撃って居る。修理大音あげて、「上方勢は鉄砲なくしては合戦が出来ないのか、柵を離れて武田の槍先受ける勇気がないのか、汚いぞ」とよばわった。汚いとあっては、武士の不面目とばかり、滝川一益、羽柴秀吉、柵外に出たのはよかったが、苦もなく打破られて仕舞った。あぜを渡り泥田を渉って三の柵に逃げ込んだ。一益の金の三団子をつけた馬印を、危く奪われると云う騒ぎである。しかし修理、隼人佐、左近等も下馬して奮戦して居るうちに弾丸の為に倒れた。修理の首は、徳川の士朝日奈弥太郎が、采配と共に奪いとった。信長の策戦功を奏して、馬場、内藤の部隊が悉く将棋倒しに会って居るのを見た。だが、いかなる勇将猛士も鉄砲にはかなわないのだ。「鉄砲など卑怯だぞ!」と理窟を云って見ても、相手が鉄砲を止めないのだから仕方がない。武田軍の左翼山県三郎兵衛昌景は千五百騎を率いて、一旦豊川を渡り、柵をしてない南方から攻め入ろうとしたが、水深く岸も嶮しいので、渡ることが出来ない。徳川の士、大久保七郎右衛門、同弟次右衛門、六千の兵をもって、竹広の柵の前一町計りの処に陣取って居るのを幸として、昌景一気に徳川勢の真中に突入ったので、敵味方の陣が反対になった。物凄い中央突破である。昌景即ち人数を二手に分け、大久保勢の柵内に逃げ帰るを防いだ。山県の士広瀬郷左衛門、白の幌張の指物をさし、小菅五郎兵衛赤のを指して、揚羽の蝶の指物した大久保七郎右衛門、金の釣鏡つりかがみの指物の弟次右衛門と竹広表の柵の内外を馳せ合せて相戦う様は、華々しい光景であった。小菅は痛手をこうむって退いたが、広瀬は猶敵勢のなかをけ廻って、武者七騎を突伏せ、十三騎に手を負わしたと云うから大したものである。山県勢、大久保勢と押しつ押されつの激戦をくり返して居るうちに、弾丸で死するもの、六百に及んだ。昌景屈せず、柵を破れと下知して戦ったが、忽ちにまた二百余りは倒れ、きずつくものも三百を越えた。しかし手負の者も、三ヶ所以上負わなければ退かせない。昌景自身冑の吹返ふきかえしは打砕かれ、胸板、弦走つるばしりの辺を初めとして総て弾疵たまきず十七ヶ所に達したと伝えるから、その奮戦の程が察せられる。昌景の士志村又右衛門、昌景の馬の口を押えて、退軍して士気を新にすることを奨めた。そこで馬を返そうとすると、既に敵の重囲の中であるから、朱の前立まえだてを見て、音に聞えた山県ぞ、打洩すなと許り押し寄せて来る。広瀬郷左衛門、志村又右衛門等これを押え戦う暇に、昌景退こうとして、ふと柵に眼を放つと、この乱軍の中に悠々と破られた柵を修理して居る男がある。「柵のくいはかく打つもの、結び様はこの様にするもの」と云いながら立ち働いて居るのを見て、昌景、「彼奴かやつは尋常の士ではない、打ち取れ」と馬上に突っ立つ処に、弾丸、鞍の前輪から後に射通した。采配を口にくわえ、両手で鞍の輪を押えて居たが、堪らず下に落ちた。徳川の兵はしり寄って首を奪い、柵内に逃げもどろうとするのを志村追かけ突伏せてとり返す事を得た。昌景初め飯富源四郎と称したが、信玄その武功を賞して、武田家に由緒ある山県の名を与えたのであった。常々武将の心得を語るのに、「二度三度の首尾に心おごる様ではならない。刀ですら錆びる。まして油断の心は大敵である。心驕ることなく、家臣の忠言を容れるのが第一である」として居たが、彼の座右の銘が勝頼に解し得なかったのは是非もない次第であった。昌景が討死の前、眼をつけた武士は、羽柴秀吉であったと伝えられる。武田左馬助、小山田兵衛尉、跡部大炊助等も別の一手をもって、弾正台の家康を目指すけれど大勢は既に決した。望月甚八郎、山県討死の処に乗入れて敗残の兵を引上げしめようとしたが、弾丸一度に九つも中り、脚と内冑を撃たれて果てた。ここに至って甲斐の武将勇卒概ね弾丸の犠牲となり終って、武田勢総敗軍の終局となる。敵浮足立ったりと見ると、織田徳川の両軍は柵外に出でて追撃戦に移った。信長の使が徳川の陣に来って、先陣せよと下知を伝えた処、大久保兄弟に属している内藤四郎右衛門信成のぶなり、金の軍配団扇うちわに七曜の指物さしたのが、「我主君は他人の下知を受けるものではない。内藤承って返答したりと申されよ」と云った。意気あがって鼻いきが荒いのである。徳川の脇備わきぞなえ、本多平八郎、榊原小平太、直ちに勝頼の本陣に突懸った。勝頼騒がず真先にけ合せようとするのを、土屋惣蔵馬のくつわを押え、小山田十郎兵衛以下旗本の士四百騎が、悉く討死して防ぐ間を、落延びさせた。力と頼む各部隊の驍将等が悉く討死して指揮を仰ぐに由ない上に、総大将の退陣と聞いては、さしもの武田勢も乱軍である。勝頼の後備武田信友、同信光や、穴山梅雪の如きは勝頼より先に逃げ延びた程である。滝川を渡り、西や北を目指して落ちて行った。前田利家、敗走軍を追って川のほとりに来ると、鍬形打った甲の緒を締め、最上胴の鎧著けた武者一騎、大長毛の馬を流に乗入れて、静々と引退くのを見た。落付き払った武者振只者に非ずと、利家諸鐙もろあぶみを合せて追掛けると、彼の武者また馬のこうべを返した。透間すきまもなく切り合い火花を散して戦っているうち、利家高股たかももを切られて馬から下へ落された。退軍の今、首一つ二つ獲った処でと思ってか、彼の武者見下したまま、再び退こうとする処に利家の家老村井又兵衛長頼、馬を飛してやって来た。主の傷つき倒れたのを介抱しようとすると、利家「敵を逃すな」と下知した。又兵衛命のままに立向うと、大変な剛の者と見えて、忽ち又兵衛の甲の鉢を半分ほども斬り割った。それで主利家と同じ様に馬から仰向けに落されたのだが、落ち際に相手の草摺くさずりに取付いて、諸共に川の中に引摺り込んだ。相手が上にのし掛ったのを、又兵衛素早く腰刀を抜いて、二刀まで刺して刎返はねかえしたので、流石さすがの剛の者も参って仕舞った。武田の弓隊長弓削ゆげ某と云う者だと伝える。織田徳川勢の追撃急な上に、勝頼主従の退却も、しかも滝川に橋が沢山ないのであるからすこぶる危かった。余り周章あわてて居るので、相伝の旗を棄てたままにした。本多忠勝の士原田矢之助これを分捕った。堀金平勝忠、武田勢を追いながら、「旗を棄てて逃げるとは、それで甲州武士か」と嘲笑をあびせると、武田の旗奉行振り返って、「いやその旗はふるくなったものだから棄てたので、かけ代え此処に在り」と云って新しい大文字の旗を掲げると逃げ出した。堀「尤も千万な申分である。馬場、山県、内藤等の老将も旧物であるから棄殺ししたか」と云った。敗戦となると惨めなもので、どう云われても仕方がない。勝頼、猿橋の方を指して退いて居たが、従って居るのは初鹿野はじかの伝右衛門三十二歳、土屋右衛門尉弟惣蔵二十歳であった。惣蔵、容姿端麗にしてしかも剛気であったので、勝頼の寵愛深かった。惣蔵、兄右衛門尉の身を気づかって、馬を返すこと二度に及んだが、その度に勝頼も轡を返した程であった。勝頼の後三四町の処を、武田左馬之助信豊三四十騎をもって殿軍して居た。勝頼ふり返って、信豊の様子を眺めて居たが、伝右衛門を顧みて曰く、「我、信玄の時御先をけたるによって、当家重大の紺地泥こんじでい母衣ほろに四郎勝頼と記したのを指した。当主となった後は左馬助に譲ったが、今見ると指して居ない。若し敵の手に渡る様なことがあれば勝頼末代までの恥である。身命を棄つるともこれを棄てては引く事は出来ない」そこで伝右衛門、左馬助の許に馳せて聞くと、「戦い余りに激しかったので串は捨て、母衣は家老の青木尾張守に持たせて置いた」と答えて尾張の首に巻き附けたのを解いて渡した。勝頼上帯に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)んでのち進もうとすると馬が疲労し尽して動かない。笠井肥後守この体を見て馳せきたるや、馬から飛び下り、「この馬に召さるべし」と云う。勝頼「汝馬から離れれば必ず討死することになるぞ」と云うと、恩義の故に命は軽い、忰をどうぞ御引立下さいとこたえ、勝頼の馬の手綱を採って押戴き、踏止まって討死した。此時にはもう追手の勢間近に迫って居たので忽ち徳川の兵十二三騎後を慕って寄せて来た。伝右衛門、惣蔵、渡合って各々一騎を切落し、惣蔵更に一騎と引組んで落ち、首を獲る処に折よく小山田掃部かもん、弟弥介来かかって、辛うじて退かしめた。弥介は、伝右衛門奮戦の際、持って居た勝頼の諏訪法性ほっしょうの甲を田に落したのを拾い上げた。勝頼、惣蔵を扇であおいでねぎらい、伝右衛門の軽傷を負ったのに自ら薬をつけてやった。黒瀬から小松ヶ瀬を渉り、菅沼刑部ぎょうぶ貞吉の武節ぶせつの城に入り、梅酢で渇を医やしたと云う。勝頼の将士死するもの一万、織田徳川の死傷又六千を下らなかったと伝わる。とにかく信長の方では三重にも柵を構え、それに依って武田の猛将勇士が突撃するのをはばみ、武田方のマゴマゴしている所を鉄砲で打ちすくめようと云うのである。鉄条網をこしらえていて、それにひっかかるのを待って機関銃で掃射しようと云う現代の戦術そのままである。こう云う戦術にかかっては、いかに馬場信房でも山県昌景でも、生身である以上、忽ちやられるわけである。而も彼等が戦いを欲して進んだのでなく、勝頼からの主命で止むなく突進して死んだのであるから気の毒である。勝頼が天目山で死んだのは天正十年だが、武田はこの一戦で敗亡の形を現したのである。桶狭間では必死奇兵を弄して義元を倒した信長は、ここでは味方の多勢を頼んで万全の戦術を考えているのである。喰えない大将である。勝頼などが、到底及ばないのも仕方がないと云うべきである。天下が統一されたのは鉄砲が伝来された為であると史家は云うが、鉄砲の威力が極度に発揮されたのは長篠合戦が最初である。





底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
   1987(昭和62)年2月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際の「ヶ」(区点番号5-86)(「三ヶ所」等)を大振りに、地名などに用いる「ヶ」(「三方ヶ原」等)を小振りにつくっています。
入力:網迫、大野晋、Juki
校正:土屋隆
2009年7月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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