通称名は六左衛門。諱の読みには「しげまさ」「しげのぶ」など諸説有り。
妻は真田昌幸の長女・村松殿(於国)。真田信之・信繁の義兄。
武田家麾下の信濃国人衆・小山田弾正家(郡内小山田氏)の一門を出自とするが、江戸期に作成された家系図には別系統の石田小山田氏の子孫であると記されている。
天正10(1582)年、木曽義昌が武田氏を裏切り、織田方の軍勢が信濃に侵攻。
茂誠は祖父・昌辰、父・昌行ら一族とともに、仁科盛信(武田信玄五男)の高遠城で織田信忠(信長嫡男)勢を迎え撃って籠城戦を行う。
茂誠はかろうじて逃げ延び、舅である昌幸に保護され、臣下に加えられる。
天正18(1590)年、領地として信濃国小県郡村松郷(現長野県青木村)を与えられ、屋敷を構える。
関ヶ原合戦に前後して真田信之の家臣となる。
大坂の陣では信之の子の信吉・信政兄弟に従って、徳川勢として従軍した。元和8(1622)年、信之の松代移封に従い、松代に移住。以降小山田家けは代々次席家老を勤める名家となった。
寛永14(1637)年死去。享年は76、あるいは77とされる。
昌幸・信繁親子が九度山に配流となった折り、生活の支援を行い、書簡も多くやり取りしている。信繁が最後に出した手紙は、茂誠宛のものであった。
【真田伊豆守信之】
真田昌幸の長男。母は山手殿。同母姉に村松殿、弟に信繁。
正室は、始め父の長兄・信綱娘(清音院)、後に本多忠勝娘(徳川家康養女)小松姫。初名は源三郎。官名は伊豆守。
幼年期は武田家の人質として過ごし、武田勝頼の嫡男・信勝と同時に元服。信玄の偏諱を受け「信幸」と名乗る。
武田家滅亡後、母の山手殿と共に上田の父の元へと逃れる。
本能寺の変後、真田家は沼田城を巡って北条氏と敵対。
信幸は八百の手勢で北条方五千が防衛する手子丸城を奪還。
信州小県を巡る争いでは父と共に計略を以て室賀氏を倒す。
沼田の領有を巡って対立していた徳川方が上田に攻め込むと、信幸は戸石城に着陣。三百余の兵力で徳川本隊を横から攻め、壊走させた。(第一次上田合戦)
和睦の後、信幸を高評価した家康は駿府に出仕させ、本多忠勝の娘小松を養女として娶せた。小田原征伐後に沼田領は正式に真田帰属と確定し、信之が城主となる。
関ヶ原合戦では西軍に付いた父と袂を分かち、徳川秀忠軍に属して第二次上田合戦に参加。ただし、戸石城を開城させ、その守備に当たったため、父・弟と直接戦うことはなかった。
関ヶ原が東軍勝利で終結すると、九度山配流となった父の所領を受け継ぎ、沼田と合わせて九万五千石を領有、上田藩主となる。この頃諱を「信之」に改める。
大阪の陣には病を理由として着陣せず、息子達を派遣した。
家康没後、松代藩に加増移封。高齢となっていたが、三代将軍家光より「豆州は天下の飾り」と評され、九十歳を過ぎてなお隠居が許されず、九十三歳まで藩政を執った。
なお着用した鎧等から身長は六尺一寸(185cm)と推測される。
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