いにしえの【世界】 51
「しかし、囚われの美姫ではなくとも、クラリスという名の女性は、間違いなく存在した……のでしょう?」
エル・クレールがすがるような目をした。
「なんで俺に訊く?」
ブライトの微笑には、少々の意地悪さが混ぜ込まれていた。質問には答えないと、暗に言っているのだ。
しかし、
「あなたより他に訊く相手がおりません。……あなたはどうやら叔父が書いた物の内容を詳しくご存じのようですし」
まっすぐに己を突き刺す緑色の瞳に、ブライトはいささかたじろいだ。
「詳しくなんぞ知りやしないさ。ただお前さんよりちょっくら長く生きているから、お前さんが生まれる前に流れた噂話の類を聞きかじっているってだけのこった。それにしたって、流石に四〇〇年昔のハナシは知るわけがなかろうよ」
「それはそうでしょうけれども……」
エル・クレールは羊皮紙の束を抱きかかえ、力なくうなだれた。
「お前さんが岡惚れしている末生り瓢箪も、結局は同じ事だがね。そのボロ紙に書いてあるのも、恐らくはあいつが聞きかじった噂や、心もとない史料の書き写しに過ぎん……正史とやらの引用も含めて、な。どだい、ハッキリしたことなんぞ、誰にも判りゃしないンだ。だから後の世のモンは残された『記録』から推量して、自分なりに解釈する必要がある。解釈だから、人に拠っちゃ変わりうる。だからお前さんもお前さんなりに解釈すればいい。他人の解釈を参考にしながら、な」
「他人の解釈? それは、例えばあなたの解釈ですか?」
エル・クレールは目を輝かせて身を乗り出した。
「ひでぇなぁ、姫若と俺はもう他人なんかじゃないでしょう」
軽口で矛先を反らそうというブライトの算段は、当然ながら通らなかった。エル・クレールは怒りゆえとも恥じらいからとも知れぬ紅色で頬を染めつつ、
「他人です。誰がなんと言おうとも」
強く否定した後、語気を緩めて言葉を足した。
「ですから、あなたの意見を聞かせてください」
それは懇願に近い声音だった。
重いため息がブライトの口から漏れた。
「俺は学者でも物書きでもねぇし、学んでやろうとか探求しようとかってぇ欲もねぇ。ただ面白がってるダケの聴衆の言うことなんざ、聞いても得にゃならんよ」
「では、誰の解釈を聞けと?」
その問いに、彼は顎で答えた。無精髭の生えた顎が指したのは、四度幕の開いた舞台の上だった。
舞台の中心に、初代皇帝が天を仰ぎ立っている。
男を演じる女の踊り手が、力強く大地を踏みしめ、天を掴み盗る勢いで諸手を突き上げている。
背後では不揃いな軍装の一団が横一列に並び、踊っていた。全員が同じ振り付けに基づいているが、しかし足並みはまるで揃っていない。
踊り手の技量が不足しているのではない。
むしろ、型どおりでありながら不揃いという不安定なダンスを、観る側に違和感を感じさせることなく踊ってみせる彼女らの技量は、並以上と言って差し支えない。
これは演出だ。
軍人としての訓練などまるきりされていない、食いっぱぐれの匹夫達が、それぞれの思惑を持ちつつも一塊になって進んでいる。いずれ誰かが暴走する可能性がある。そして組織は崩壊する可能性がある。しかし今は一つの目標に向かって歩く。
……それを表すために、演出家がダンスを不揃いにさせているのだ。
無論、御上から許された演出では、義勇軍の列は一糸乱れず行軍する事になっている。
戯作者兼出演者兼振り付け師のマイヤー=マイヨールが、危険を承知で腹をくくり、役人の目をかいくぐりながら自説を主張しているのか、あるいは役人がそれに気付かないと高をくくっているのか、さもなくば、己の演出が相当に危険な物であるということをまるで自覚していないのか、傍目にははかりかねる。
兎も角も、舞台上では不調和の調和が演じられていた。
皇帝役が力強くなめらかな連続ターンを決める。背後の群舞は「彼」を讃える手振りで舞う。
背景に掛けられた風景幕が横滑りに動く。
後の世では義勇兵と呼ばれていることとなる小さな賊の群れは、いずれかへ「進軍」しているのだ。
行く先は、北の果ての小城。目指すは、城郭の奥に隠れる美しき姫。