いにしえの【世界】 64
シルヴィーが悲鳴を上げた。転げるようにエル・クレールの背後に隠れる。
「ヒトの一張羅を駄目にてくれるとは、ホントにこの姫若様はどうしようもないお方だよ。罰として、助けてやらねぇから気ぃ入れて片付けろ」
言いつつ、ブライトは裂けた上着とは、まるで逆の方向を見やっていた。
舞台の方角から、物の壊れる大きな音が聞こえる。怒声、悲鳴、恫喝が混じったそれは、ただならぬ事態を知らせていた。
ちらりと「出口」の側を見た。
銀色に光る刃物が、テントの布地を縦横にに切り裂いた。人間一人が通れるほどの穴からぬっと現れたのは、
「勅使の腰巾着」
ヨハネス=グラーヴがイーヴァンと呼んだ若者だった。
充血により赤く澱んだ眼球が落ち尽きなく動く様子や、眉間から鼻の頭にかけて不快と興奮の縦皺を刻んだ顔立ちは、常軌を逸していると言えなくはない。だが彼は、肉食獣がアルコールを飲んだような口臭をまき散らし、肩を大きく上下させ、呼吸をしている。
『クレールはコイツのどこに屍体の臭いを嗅ぎ取ったってンだ?』
疑念はあった。だが、今朝から彼女は生ける屍を見極める感覚がひどく乱れている。
真鬼か人鬼か、あるいは別な「生きていない物」の気配を感じ取ったのは間違いないだろう。ただし、暗闇で目隠しされているに等しい不確実な「視覚」が捕らえたものだ。
『近くにいるとすれば、むしろ向こうの方が、怪しい』
ブライトの目玉は舞台の方角に戻った。
ほとんど同時に、イーヴァンが吠えた。
「斬るっ! ヨハンナ様の心を動かす者は、皆斬るっ!」
長大な剣が風を切った。エル・クレールが身構えている場所から三歩離れた床面に重い鋼の切っ先がめり込んだ。
貧相な床材の破片と細かな土埃が、猛烈な勢いで飛び散った。乾いた大地の微細な破片が朦気なって立ちこめる。エル・クレールの視界はふさがれた。同時に、仕掛けたイーヴァンからも気に喰わぬ小僧の姿が見えなくなった。
決して、でたらめな攻撃ではない。
飛び散った埃から逃れようとするならば、左右どちらかか後ろに飛び退くか、目を閉じ、腕をかざして避けるかしなければならない。
前の策を採れば反撃のタイミングがずれる。後の策を採れば次の攻撃を見極めることができなくなる。
エル・クレールの背後には、突然の乱入者におびえるシルヴィーが居る。飛び退くとすれば左右のどちらかの、空間がより広く空いている側となろう。
イーヴァンの血走った眼球は右側に動いた。
少年顔をした細身の剣士がそちらに移動した気配はない。
となれば、標的は同じ場所に止まり、土埃の中で目を閉じ顔を覆っているに違いない。
はたして、埃の向こうにうずくまる人影がうっすらと見える。
「おおぅ!」
若い貴族は策の成功と勝利を確信し、雄叫びを上げながら勢いよく踏み込んだ。長剣は再び弧を描いて振り下ろされる。
剣が硬いものに当たった。
鞘に収まった一振りの細身の剣が見えた。イーヴァンの太い剣と垂直に交わった形にあてがわれている。
障害にはならなかった。こともなく両断してなお、剣の勢いは増した。そのまま叩き付ける。
床に二つめの穴が開いた。
再び湧き上がった砂埃の中から、細い物が飛び出した。
イーヴァンの目は、反射的にその物体を追っていた。
細身の刀の鞘だ。半分に両断された石突の側だけが、軽い音を立てて床に落ちた。
鞘の断片は床の上を回りながら滑り、中身を吐き出した。
剣の切っ先の形をした、茶褐色の木ぎれだった。
イーヴァンは驚愕をそのまま声にした。
「木刀だと!?」
昼間、チビ助はあの剣で己の攻撃を受け止めた。あの剣で己の剣を押し戻した。
「木刀で、だと!?」
もう一度叫んだ。
目玉を土埃に戻した。小柄な影がうずくまり、震えている。
土煙が徐々に収まったその場所にあったのは、細く、華奢な踊り子の蒼白な顔だった。
「なッ……おおぅっ!」
イーヴァンの喉から苦痛の声が絞り出された。上腿に激痛を感じる。
下を向いた。
筋肉の膨張した太腿から、質素な作りの刀の柄が突き出ていた。