いにしえの【世界】 65
 見覚えがあった。
「チビ助の、刀!?」
 イーヴァンは叫んでいた。
「刺さっているのか? 木刀だぞ!? 木切れが、私の身体に……俺の筋肉にっ!?」
 白金色の光の束が、身体の横を通過するのが見えた。
 イーヴァンは首を回し、その影を追った。
 青い上着の裾がちらりと見える。エル・クレールの服だ。
 信じがたかった。
 おそらく自分よりも年下で、間違いなく自分よりも腕力のない小僧が、彼の予測を遙かに超えた力量と動きを見せたことが、イーヴァンには理解できない。
 言いようのない屈辱を己に感じさせているのは、本当にあのチビ助なのか? 信じられるものか、この目で見るまでは――。
 身体ごと振り向こうとする動きは、しかしすでに封じられていた。
 背中に何かが押し当てられている。硬く尖った切っ先が、衣服の上から背の皮膚にちくりと刺さる。
 肋骨の少しばかり下だ。切っ先の向けられた先には、肝臓がある。
 刺し貫かれれば、ただでは済まない。
 動けない。
 イーヴァンは息を呑んだ。
 肩越しに背後を窺い見ると、丸く小さな肩と、そこから繋がるほそやかな腕が漸く見える。
 そして長い髪が、水にさらしたヘンプの色の髪が、光をはじいて揺れていた。
「君、痛みを感じるのですね?」
 エル・クレールが問うた。
「自分でやっておいて、何を言うか」
 イーヴァンは忌々しげに言い捨てた。
 だがそれ以上のことはできない。少しでも身動きしようとすると、背にあてがわれた「何か」が皮膚に与える鋭角な刺激が強くなる。
 背後の敵は、あがらう権利も、腿に突き刺さった木刀の柄を抜く自由も、彼から奪っている。
「急所は外している。腱や太い血管には傷が付いていないはず。安心なさい。私は人間には死ぬような傷を負わせることが元よりできないのですから」
 不可解な言葉だった。
 だがイーヴァンにはその不可解さが何であるのかを考える余裕はなかった。
 言葉そのものよりも、言い振りの方が癪に障ったからだ。
 目上の者が物を知らない子供に語るような、上から抑え込む凛然さがある。
 なんたる辱めか。
 イーヴァンの腑は煮えくりかえっていた。
 その言葉をささやくチビ助の声が、妙に甘い色音だと言うことが、そしてその言葉で僅かに安堵を得た自分が、腹立たしい。
「……もう一度聞きます。私に刺された脚が痛むのですね?」
 エル・クレールは念を押した。
 返答はない。
 だが、大柄な体つきにしては妙に細い顎がぎりぎりと軋み、脂汗が珠と吹き出しているその状態こそが、肯定の回答であることを、背にぴたりと密着して立っている彼女は理解できた。
「赤い石を、持っていますか? 拳ほどの丸い珠……あるいは小さく砕かれた欠片かも知れぬけれど」
 イーヴァンの肩が大きく痙攣した。
 大柄な若者の背は、吹き出した汗でぐっしょりと濡れるている。
 彼は口を利けなかった。
 目が霞んでいる。意識が揺れている。
 原因は腿の傷ではない。背に突きつけられた「鞘の残骸」への恐怖でもない。
 胃の腑が熱い。
 エル・クレールが発した「赤い石」という言葉を聞いた途端、イーヴァンの胃の中で何かが燃え上がった。
 形のないどろりとした存在が、胃の腑の壁を焼いて渦巻いているように思えた。
 やがてその何かは胃袋の中で一点に固まり、形を成し、重さを帯びた。
 異物が腹の中で暴れている。
 猛烈な吐き気に襲われたイーヴァンは、前のめりに倒れ込んだ。
 床に両手を突いて這いつくばり、喉の奥で気味の悪い音を立てる。
 えた液体が床を汚して広がった。
 嘔吐物の中に、形のある物はない。
 イーヴァンはなおも腹の中の物を戻し出そうと喉を絞った。
 彼の口からは、血の混じった粘液が僅かに溢れるばかりだった。
 力の失せた両腕は彼の上体を支えきれず、彼は己の吐瀉物の水たまりに顔面から崩れ落ちた。
 痛みの方角が背中向いた。
 刃物で斬られる鋭い痛みとは違う。
 重く固まりで押し潰され、無理矢理に引き裂かれる、そんな鈍く苦しい痛みだ。
 何かが、骨を突き通って、肉を突き破って、背中に突き抜けてゆく気がする。
「たす、けて」
 イーヴァンは喘ぎの中に消え入りそうな悲鳴を上げた。

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