いにしえの【世界】 66
彼の身体は小刻みに、不自然に震えていた。
恐怖ゆえの顫動と、痛みと苦しみが起こす痙攣、そしてそれらとは別の不可解な振動が、彼の身体を揺さぶっている。
エル・クレールは身構えた。
この若者の腹の中に「何か」がいる。
魂のない、心のない、遺志のみで蠢く「物」がいる。
イーヴァンとその中にいる「物」に神経を注ぎつつ、彼女は視線をブライト=ソードマンに向けた。
彼も身構えていた。ただし、その備えはイーヴァンに対してのものではない。
舞台に向かう出入り口の近くに立ち、瞑目し、耳を壁に付け、伝わってくるかすかな音を聞いている。
機材が置かれた細い通路の先、踊り子達と生意気な戯作者がいるはずの空間からは、今のところ「異常な音」は伝わってこない。
だが、何かが起こる気配がする。その予感が、ブライトをその場に縛り付けていた。
こちらへの助太刀は、期待できない――エル・クレールの視線は床に落ちた。
小柄なダンサーが床にぺたりと座り込んでいる。紅を引いた唇が小刻みに震え、奥歯が小さく鳴っていた。
恐怖に濡れるシルヴィーの瞳がエル・クレールのそれに縋りついた。
「ここから離れなさい。できるだけ遠くへ」
エル・クレールは静かに言う。しかしシルヴィーは動こうとしなかった。
舞台側の出入り口には巨躯の剣士がただならぬ形相で立っている。
外へ出るために、切り裂かれてぽっかりと穴の開いた「出口」へ向かうには、尋常ならざる状態で打ち倒れている見知らぬ男の傍らを抜ける必要がある。
どちらの男の肉体からも、近付きがたい不穏な空気が立ち上っている。
何が起きているのか、何が起きようとしているのか、シルヴィーにはまるきり理解できないし予想もしようがない。
しかし彼女は、自分の力の及ばない「恐ろしいこと」が起きているらしいと、感じ取ることができた。
感覚が鋭敏に過ぎるのだ。一流の表現家には必要な感性ではあろうが、今この場ではむしろ邪魔となっている。
『出口がふさがれている』
シルヴィーは思い詰めてしまった。胸の前で祈るような形で手を組み、首を振る。
正体のわからない恐怖に押し潰された彼女の心は、手足を動かすことを拒否している。
瞼を閉じた。押し出されるように、涙がこぼれ落ちた。
その儚げな美しさに、同性であるエル・クレールが、一瞬心奪われた。
その一瞬がなければ、彼女は捕らわれる前に、あるいは迎撃ができたやも知れない。ほんの一息、瞬き一つの間が、彼女の直感を鈍らせた。
イーヴァンが悲鳴を上げた。煉獄の業火に炙られる亡者が、怨嗟と痛悔とをない交ぜ泣きして叫んでいるかのような彼の声を、文字に起こすことは不可能だ。
驚いて視線を戻したエル・クレールの目に腕の形をした物体が映った。カップの底に残ったショコラに血を混ぜたような赤黒い色の表面には、ぬるりとした光沢がある。
腕はイーヴァンの身体から出ていた。
肩からではない。背中だ。衣服を突き破って生えている。
腕は、真っ直ぐにエル・クレールに向かって伸びた。
文字通りに伸びたのだ。
関節であるとか、筋肉であるとか、腱であるとか、そういう形のあるものでできている当たり前の「人間の腕」にはあり得ない動きをした。
かわしきれなかった。腕はエル・クレールの胴から肩、そして首にかけて巻き付き、彼女の身体を締め上げた。
掌の形をした突端が、彼女の後頭部をつかみ、覆う。
彼女の頭は押さえつけられ、イーヴァンの背に覆い被さる形に引き寄せられた。
彼の背中は磨かれた石の表面そのものだった。質の悪い赤鉄鉱の鏡面には、無数の脈を打つ赤い筋が条痕さながらに浮かび上がっている。
エル・クレールの顔面は、イーヴァンの背中から拳一つほどの高さで止まっている。暗い鏡面の赤く粗い網目の中に、彼女の顔が写り込む。
不覚と苦痛に歪んでいた顔が、ふっと笑った。
エル・クレール自身の顔の上には浮かぶはずもない、優しげな、しかし冷たい微笑だった。