いにしえの【世界】 67
青黒い唇が、ゆっくりと動く。
「そう、やっぱり、そういうことだったようね。うふふ、思った通りだわ……」
鏡の向こうの虚像が、独り得心している。
「つまりは、あなたはアタシだということ」
ねっとりとからみつく声で、嬉しげに言う。
エル・クレールの背筋に悪寒が走った。虚像の眼が、赤く揺れる。
「アタシは、二人もいらないわよねぇ」
黒い鏡の中から、何か向かってくる。腕の形をしているようだが、あまりに勢いが早く、正確な形を掴むことはできない。
しかし形状のことなど、エル・クレールには考える余裕もつもりもなかった。爪の伸びた先端が、心の臓に向かって突き出ようとしている。
一閃。赫い光が彼女の体の周囲で弧を描いた。
悲鳴が二つ上がった。
一つは、エル・クレールの体の下で。
イーヴァンが、屠られようとしている獣のそれに似た声を出して、苦しんでいる。
もう一つは、離れた場所で。
誰かが、地の底から響く死霊のそれを思わせる声を出して、狂喜している。
エル・クレール=ノアールは右手に赤く輝く細身の剣を持っていた。
彼らのような「鬼狩人」と呼ばれる者達、そして「鬼」と呼ばれる物達が【アーム】と呼ぶ、物質でない武器だ。
それを人の命そのものだと言う者もいる。大抵のそれが、「この世に未練を残して逝かねばならなかった者」が、亡骸の替わりに残していったモノだからだ。
事実か否か、だれにも判らない。
確かめようがないのだ。
所持者と成った人間が、手中の【アーム】に問いかけても、彼らは応じてくれない。
片膝を床に落とし、呼吸を整えつつ、エル・クレールは体にまとわりついていた二本の「腕」を引っ掴み、投げ捨てた。
床に落ちた「腕」は、初め切断面から腐汁を流し出していたが、やがてそれ自身が、黄色みを帯びた濁った茶色の、粘りけのある、強烈な臭気を発する液体に変じた。
傍らでのたうち苦しむ若者の背を見やると、黒い鏡の中に、エル・クレールの顔をしたモノの、恍惚陶然と蕩けた表情が映し出されていた。
その顔が、次第に小さくなってゆく。
黒い鏡面が縮んでいるのだ。泥水が地面に吸い込まれるように、水たまりが陽光に乾されるように、鏡が狭まっていゆく。
イーヴァンが血反吐をまき散らすのとほとんど同時に、鏡は消えた。
若者の背中は、骨の浮いた生白い「人の肌」に戻った。
頸動脈に指を添えた。エル・クレールの指先に、かすかな血潮の脈動が感じられた。
「生きている」
彼女はイーヴァンの耳元に唇を近づけ、一言、
「気を確かに」
彼はうつろな目を泳がせた。
光背を頂いた人の影が霞の向こうに見えた気がする。その人は、柔らかく、力強く、微笑んでいる。
イーヴァンは体の芯に熱い力がわき起こってくるのを感じた。
「案ずるな、君は助かる」
エル・クレールは断定的に言った。
身を起こそうとするイーヴァンを押し戻し、汚物の海をよけて仰向けに横たえさせると、彼女はシルヴィーを捜した。
先程来と同じ場所で、同じ姿勢のまま、彼女は座り込んでいた。
「君一人では逃げられぬか?」
静かな声で聞かれ、シルヴィーは小さく頷く。エル・クレールは続けて
「ではここで、この人を看ていてください」
今度は首を横に振った。
腐臭を漂わせる「化け物」の側にいることなど、恐ろしくてできるはずがない。
「大丈夫。魔物は私が退治した。彼は人間に戻った……いや、元より人間だった。お願い、助けてあげてください」
エル・クレールはシルヴィーの返事を聞く前に立ち上がった。瞼を閉ざして静かに呼吸するイーヴァンの体を飛び越えると、彼女は楽屋出口へ走った。
先ほどまでそこに立っていた男の姿は消えていた。
開け放たれていた形ばかりのドアを抜け、通路へ飛び出す。
無造作に置かれた書き割りの風景の前を駆けて遠ざかる、ブライト=ソードマンの背が見えた。
舞台に向かって折れ曲がる時、彼は横顔に小さな笑みを浮かべ、急に足を速めた。
相棒が追ってくること、すなわち任された仕事を成し得たことに安堵していた。