いにしえの【世界】 68
僅かばかり時を戻そう。
いつまでも見つめていたく、どうにも手放したくない二つの「宝」の見張り番を、不承不承シルヴィーに任せたマイヤー=マイヨールは、楽屋を出ると一つ深い息を吐いた。
両の手で己の顔を覆い、そこにいつもどおりの外向きな笑顔があることを確かめ、彼は狭苦しい通路を進んだ。
埃っぽい空気をゆらして伝わってくるざわめきの元は、どうやら舞台の上にあるようだ。
『阿婆擦れ共め、踊っていない間は喰っ喋っていないと気が済まないと来ていやがる』
心中で口汚くののしる。罵詈も雑言も確かにマイヤーの本音だが、だからといって彼が踊り子達や裏方達を蔑視しているわけではない。
戯作者・演出家としてのマイヤーは劇団員達を信頼している。
彼がややこしい台本を書いても、あるいは相当に厄介な振り付けをしても、彼女らは……小さく貧しい劇団故の技術不足は否めないながらも……彼が満足できる演技をしてみせる。
踊り手・出演者としての彼も同僚達を大いに尊敬している。
我が侭な演出家の、突拍子もない振り付けを、文句を言いつつやりこなす彼女らの職人気質は、彼には真似のできないことだった。
なにしろ、演技者としてのマイヤー=マイヨールときたら、自分ができぬと思いこむと、演出家(つまりマイヤー自身のことだが)の指示を無視して、ジャンプの高さやターンの回数を勝手に減らしたり、何食わぬ顔をして大切な振り付けを端折ってしまうような、困った怠け者だ。
文句を言いつつも三十六回のグランフィッテを、何とか見られる形に成し遂げる踊り子達の真摯さには、畏敬の念さえ抱く。
確かに彼らの多くは文字さえ読めず、従って学もなない。
博奕癖、酒癖、女癖、男癖が、どうしようもなく悪い者もいる。
世間様に向かっておおっぴらにはできないような「仕事」をしている者だって、いくらか混じっている。そういう連中が持つ人脈が、劇団を助けてくれることもないとは言えないが、むしろ大きな厄災を招き込むことの方が多い。
そんなことはしかし、マイヤーにはどうでも良いことだった。少なくとも、いまここにいる連中は、マイヤーにとって誰一人欠けてもらっては困る、大切な仲間だ。家族といっても良い。
「いや、一人だけ、どうに要らない余計者がいるか」
舞台袖からこっそりと観客席を覗き見た彼は、その「要らないの」の禿頭を見つけて首を振った。
小男だがでっぷりと太ったフレイドマル座長は、落ち着き無く体を揺すっている。
三歩離れた隣に、黒ずくめの細い影が立っていた。黒い鍔広の帽子と、未亡人がするようなヴェールで顔を覆い隠してはいるが、そこからちらりと覗く妙に赤い唇を、マイヤー=マイヨールが見まごうはずがない。
『男女のグラーヴ』
知識勝負の戯作者であるマイヤーは、お城の中で退屈に過ごす人々の中で、男女とも厚化粧をすることが当たり前に行われているということを知っている。
だから、勅使グラーヴ卿が顔を白く塗り、唇を真っ赤に描くことを不思議とは思わない。
大体、彼自身役者の端くれであり、舞台に上がるときには、当たり前に白粉を叩き紅を引くわけである。普段であっても、化ける必要があると思えば、頬紅を入れ、眉を描くことを厭わない。
だからこそ、というべきであろう。
だからこそ、マイヤーはグラーヴ卿の化粧に違和感を覚えた。
『近頃の都の流行は、私のような田舎者には到底理解できないねぇ』
顔の造作も元の肌色もまるきり無視して、顔中に軽粉(水銀粉)をべったりと塗り、口の周りを辰砂(硫化水銀)で縁取る極端な化粧は、マイヤーの感覚では日常生活には見合わないものに思えた。
神殿で儀式をする巫女、あるいは薄暗い舞台に立つ役者や踊り子といった、神懸かりの憑代であれば、合点がゆく。美しいが薄ら寒い顔つきは、この世で生きる人間を表すにはふさわしくない。
あるいは、グラーヴ卿が実は覡の側面を持っているとでも言うのであれば、腑に落ちなくはない。ただしそんな話は、少なくともマイヤーの耳には聞こえていない。
『同じ「男とも女とも判らぬ」お人でも、クレールの若様とは大違いだ』
楽屋に残してきた若様の少し日焼けした顔を思い起こしたマイヤーは、思わずちいさな笑みをこぼした。