いにしえの【世界】 69
作り物じみた、人形のそれにさえ見える硬い笑顔を浮かべ続けるグラーヴ卿の側で、厄介者のフレイドマルは忙しなく足踏みをしていた。
広い額が脂汗でテラテラと光っている。それでいて、薄っぺらな唇はかさかさに乾いているらしい。愛想笑いの合間に何度も舐めていた。
辺りを見回す目玉は、不安げに宙を泳いでいる。誰かを探している。自分を助けてくれる者を求めている。
彼の空虚な視線が探し求め、探しあぐねている人物は
『この私、だろうねぇ』
マイヤーは、自分の不始末の片を付けあぐねる頼りない「上役」に呆れ果てた。
そしてふと、このまま出て行かずにいたら、あの禿はどうするだろうかと思った。
まず間違いなく、フレイドマルの顔色は白粉まみれのグラーヴ卿と見まごうくらい蒼白になるだろう。
足下には、緊張が流れさせる脂汗と恐怖が漏らさせる小便の混じった、薄汚い水たまりができるに違いない。
大げさで見苦しい貧乏揺すりと身震いで、元々低い背丈をさらに磨り減らすがいい。
いっそ虫けらほどの大きさになってしまええば、人を下に見てふんぞり返る真似もできなくなる。自分でこしらえた足下の汚水で溺れてしまうえばいいのだ。
そこ意地悪い笑みが彼の顔面を覆った。
『試してやろうか。まずは百を五つ』
マイヤーは右の手首に左の指先を添えた。己の脈で「正確な五百数えるだけの時間」を計ろうというのだ。
ところが正確さを求めてした脈取りの当ては見事に外れた。
脈動が普段より五割は速い。
悪餓鬼のような悪戯心に興奮している自分のばかばかしいさまに、彼はむしろ少々愉快な気分を感じた。
風景幕にくるまって隠れつつ、笑いで肩を揺するマイヤーに、痩せた年増の踊り子が一人、声をかけた。
「センセ、あまり坊ちゃんを苛めなさんな。わたいに免じて、ここは許しておやんなさい。事が済んだあとで、わたいがたっぷりお灸を据えてやるからさぁ」
彼女も苦笑いしている。骨張った手を拳に握り、頭を小突く手振りをした。
この五十に手が届こうかという団員はルイゾンという名で、先代の団長、つまりフレイドマルの父親の頃から一座に所属する最古参だった。
周囲の者は尊敬を込めてマダム・ルイゾンと呼んでいる。もっとも、ルイゾンはファーストネームだし、なにより彼女は一度だって結婚をしたことがない。従ってこの呼び方は相当に奇妙なものだ。
それでも、皆が呼び慣れ、当人も呼ばれなれてしまっているため、その奇妙さに違和感を感じる者は、劇団の中には一人もいない。
マダム・ルイゾンは美人とは言い難い面相をしている。演技者としてもどちらかといえば地味な存在だ。
彼女は若い頃から端役脇役ばかりを演じ続けている。舞台の中央で喝采を浴びたことはない。
逆に、脇役であればどんな役でもこなすことができた。もし、早着替えの時間とタイミングさえあれば、一幕の間に十役を演じ別けることもできるだろう。
器用の後ろに貧乏が付くような踊り手だ。
しかし一座にとっては必要不可欠な人員だった。どんな演目も脇を固める彼女がいなければ成り立たない。
舞台の端から全体を見渡し見守り続けた彼女は、最長老となった今、総ての団員達から慕われる母親のような存在となっている。
マイヤー=マイヨールも、そして我意の強いフレイドマルも、例外ではない。
ことにフレイドマルは、かつて彼のおしめを替えてくれたこの古株には、三十路を過ぎた今でもまるで頭が上がらないときている。
彼女が握ったげんこつは、冗談でも比喩でもなく、間違いなく若禿の頭頂部に振り下ろされるはずだ。
「人聞きの悪いことをいいなさんな、マダム。むしろ私ゃ獅子の親心のつもりなんだよ。……向こうのが幾分年上だがね……。あの坊やが自分で千尋の谷を這い上がろうって気になるのを、こうしてそっと待っているって寸法さ」
マイヤーは悪戯を見つけられた子供の顔をし、マダム・ルイゾンは悪童を諭す母親の顔をした。
「だからねマイヤーちゃん、その谷底の岩なんかよりもずっと硬いゲンコをお見舞いしてあげようって言うの。それで代わりってことにして、今は助け船を出して頂戴な。大体、ここでお役人様の機嫌を損ねちまったら、坊ちゃんの首だけじゃ到底済まないってことぐらい、センセなら分かり切ってるはずじゃぁないの」