いにしえの【世界】 70
 諭し持ち上げつついうルイゾンにマイヤーが反論できるはずはなかった。
 錦の御旗を掲げるグラーヴ卿が、毒々しい赤で塗られた唇をゆがめて
「執行」
 と呟こうものなら、即座にイーヴァンとかいう忠実の頭に莫迦が付く若造の剣が閃いて、あっという間に一座全員が処刑されるだろう。
 昼間、呑み食い屋で「強制執行」されかけた時には、幾分かはこちらの立場に理があった。おかげでかばってくれる人が現れ、危ういところで首が繋がっている。
 マイヤーは己の首筋をなで、肩をすくめた。
「クレールの若様に嫌われることになったとしても、すぐにお逃がしせずに、ちょっと顔を出してもらっていた方が、いくらか良かったかかもしれんねぇ」
 大げさに身震いし、戯けた小心者の笑顔を浮かたマイヤーは、軽口の口調で言った。身振りも言い回しも不自然で、つたなささえもある小芝居だった。
 これには見る者に芝居であることを印象づけ、言葉は台詞、すなわち「嘘」であると思いこませようという意図がある。
 つまり逃げ腰な本音を隠したいのだ。マイヤーは自分の弱さを「母親」に見せたくないと思っている。
 虚勢の張り方が歪んでいるのは、彼が嘘を真実にみせかけ、真実を嘘で覆い隠すことを本分とする「表現者」であるからからやもしれない。
 エル・クレールのような素直な観客であれば、演技達者の不自然な演技から彼の意図を読み取ってくれるであろう。が、同じ表現者であり、彼よりも老練な役者であるマダム・ルイゾンが、小僧っ子の「稚拙」な演出演技に欺される筈もない。
 彼女の目の奥に、怒りに似た寂しげな色が浮かんだ。
「あの人は剣術がお強いそうだけれど、まだまだ子供でしょうよ。しかも元々わたいらとはゆかりのないお子さんじゃないの。あの細い肩の上に、一座全員、裏方遭わせて四十とちょいの命を乗っけたんじゃ、あんまりにも可哀相ってものでしょう」
 背の高い女顔の「少年」が言葉も態度も乱暴な劇団員達に気圧されて、身を縮めて下僕の背中に隠れるようなそぶりをしているのを、彼女も他の踊り子達と一緒に見ていた。
 そのとき彼女は、この若者が、見た目に反してかなり幼いのではないかと感じた。
 親が早死にし、若くして家督を継がされた幼子。
 世間の荒波の中に放り出され、溺れぬために背伸びをし続けなければならない童子。
 家名と責任の重さを喘ぐことさえ許されない小児。
 最初にシルヴィーを抱きかかえてきたときの若様が見せた紳士然とした態度と、その後の小心翼翼とした様子のギャップが、マダム・ルイゾンにそんなイメージを抱かせたのだ。
 その想像は、大筋では間違っていない。
 団員の母代わりという立場であるためか、彼女は幼い者に対する慈愛の情が強い。そんな優しさが、彼女にある種の「真実」を見せたのだろう。
 眉根を寄せて額に深い皺を作った彼女は、
「大体、最初から危ない橋を渡っているってのは承知の上のはずじゃないの。センセも一端の男なら、大人の責任の取り方というやつを体現して、わたいに見せておくれ」
 マイヤーの肩を強く叩いたかと思うと、素早く背後に回り込み、尻めがけて脚を突き出した。勢いのない力と回転が、マダムの足先からマイヤーの尻に加えらた。
 マイヤーは舞台裏から文字通りに蹴り出された。
 彼はマダムから「貰った」、軸のずれた倒れかけた独楽に似た不安定な回転を、殺すことも増幅させることもせず、そのまま維持して舞台に躍り出た。
 舞台の床をバタバタ鳴らすその足取りは、泥酔した酒飲みか、疲れ果てた労働者の如く、フラフラとしたおぼつかないものだった。
 フレイドマル座長は不自然な音に気付き、舞台上を見た。途端、その顔面を覆い尽くしていた不安と焦りの土気色が、あっという間もなくバラ色に変じた。
 壊れた木戸の軋みに似た、耳障りのする高いかすれ声で、
「兄弟! わたしの可愛い弟! グラーヴ卿をご案内したよ! さあ、愚兄にキスをしておくれ!!」
 丸い額と眼玉をキラキラと光らせ、大きく腕を広げた。
 ふらつき歩きを披露しつつ、マイヤーは微笑を浮かべた。
『禿め、自分の都合の悪い時ばかりおべっかを使いやがって。何が兄弟だ、可愛い弟だ。冗談はその面だけにしやがれ! 私ゃあんたのご両親のことは親とも思っちゃいたが、あんたに兄事した覚えはこれっぽっちだってありゃしない』
 胸の奥でつばを吐いた。

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