いにしえの【世界】 71
もっとも、狼狽しきりのフレイドマルにマイヤーの心中を透かし見る余裕などない。
彼の疲れ果てた面に浮かんだかすかな笑みを、見た目以上に己に都合良く解釈した。
あとはマイヤー=マイヨールが上手く取りはからってくれるに違いない。口先三寸で言いくるめ、最高の演技をし、勅使様のご不興を晴らしてれる筈だ。
もししくじったら……そんなことはないだろうが、万が一にもこいつが失敗して、勅使様の逆鱗に触れたとしても、自分は悪くない。
不首尾の原因は書き損ね演じ損ねのマイヤー自身にあるんだ。
演目に関わっていない自分には非がない。
首を刎ねられるのはあいつの方だ。
非のない自分が閣下からお叱りを受けるはずがない。
自分は助かる。自分だけは助かる。
だいたい、この屑ときたら、我が侭勝手に団員を動かして、自分の言うことをこれっぽっちも聞かない高慢ちきだ。踊り子どもも、裏方どもも、皆こいつの口車に乗せられて、自分に逆らってばかりいる。
どだい、マイヤーが連中に指図すると言うこと自体が、おかしいんだ。
あいつはオヤジがどこからか拾ってきた、食い詰めた軽業師にくっついていたコブじゃないか。親が死んだあとも、可哀相だからって養ってやったんだ。
おとなしく舞台の隅で蜻蛉を切っておりさえすればイイっていうのに、ちっとばかり読み書きができるもんだから、オヤジに気に入られて、いつの間にか戯作者センセイ気取りに増長しやがって。
どこの馬の骨とも知らない薄汚れたボロ切れめ、偉そうな顔ができるようなご身分じゃないだろう。
こいつが一座からいなくなってしまえばいっそ清々するというものだ。
この一座の座長は誰だ? この自分だ。
この一座は誰のものだ? この自分のものだ。
想像というよりは、妄想、あるいは歪んだ願望と表した方が良い。
元々マイヤーに対して抱いていた嫉妬の悪感情が、恐怖のために更にねじ曲げられ、醜い方向に膨らんでしまったのだ。
もっとも、思考が歪んだ成長をするということは、もとより心の中の「そちら側」に隙間があったからに他ならない。フレイドマルの中にはマイヤーを疎ましく思う心があるのは紛れもない事実だ。同時に彼に依存しているのも真実であろう。
兎も角、その妄想により、座長は極度の緊張から解き放たれた。
殊勝に縮こめていた肥体を揺すり、青黒く硬直していた面の皮をだらしなくゆるませて、開放感を素直に表現してみせた。
口角を釣り上げて作った顔かたちの歪みは、マイヤーに投げ返す笑みのつもりらしい。
そのマイヤーは、本音を覆い隠す仮面の笑いを保持したまま、ふわりと舞台から飛び降りた。足取りは左右に大きくぶれているが、確実にフレイドマルに近付いている。
ただし、彼にフレイドマルが広げた両手の中に飛び込むつもりは、毛頭ない。弛んだ頬にキスをする気も更々ない。
座付き戯作者を絞め殺しかねない勢いで抱きしめようとするフレイドマルの、太くて短い腕がぎりぎり届かない所で、マイヤーはぴたりと立ち止まった。
座長が己の腕の勢いに振り回されてバランスを崩し、自分を抱いた奇妙な格好で前のめりに倒れそうになる滑稽な様子が、目玉の端に映らぬではなかったが、彼はそちらを全く無視していた。
疫病神の相手をしている暇はない。マイヤーはへたり込むようにグラーヴ卿の前に跪いた。
「閣下、お待ちしておりました。準備は万端とは申せませぬが、お望みとあればいつでも幕をお開けいたします」
疲労の色の濃い声音を絞り出す。
恐る恐るの仕草で視線を持ち上げ、マイヤーは勅使の顔色を窺った。
白塗りの顔に冷たい微笑が貼り付いている。
「ごまかしの帳尻合わせをするのは相当大変そうね」
グラーヴ卿の言葉が、兼任役者の疲労困憊振りを信じた上でのものであるのか、はたまた、演技と見破った上での厭味であるのか、厚化粧の下の本心はマイヤーであっても見抜き難かった。
「何分にも田舎者でございますゆえ、都の方々に見ていただくのに、不調法があってはならないと、手前共なりに考えましてございます」
「マイヨール、アタシは耳が良いのよ」
グラーヴ卿の声は耳元で聞こえた。
マイヤーはそっと顔を上げた。真っ赤な唇が目の前にあった。
何故か飲み込まれそうな気がし、背筋が凍った。