いにしえの【世界】 72
冷笑の大きな弧を描く唇が、大きく開いた。思わずマイヤーは身構えたが、グラーヴ卿は口の大きさと比例しない小さな声を出しただけだった。
「お前達が丁寧に通し稽古をしているのがとってもよく聞こえたわ。まあ、聞こえたと言っても音楽だけだったけれども」
「拙い演奏で閣下のお耳を汚しまして、会い済みませんことでございました」
マイヤーは再度頭を下げた。恐縮と慇懃の最敬礼を、本心ではないものと見抜かれかねないわざとらしさで演じてでも、グラーヴ卿の白い顔から目を背けたかった。
「そんなに卑下しなくてもいいのよ。とっても綺麗な楽譜通りの演奏で感心したのだから。まあ、音は良くても、それに合わせてお前達がどんな演技をしているのかまでは、知れたものではないけれど」
「耳の痛いことでございます」
頭を上げないまま、マイヤーは答えた。言葉が終わっても、彼は頭を上げることができなかった。
脇の下から嫌な汗が噴き出している。
『こいつは困った。真冬のムスペル山に放り出されたみたいに、頭が凍り付いて働かなくなっちまった』
大陸のほとんど真ん中にそびえ立っている尖った火山に、フレイドマル一座が脚を伸ばしたことはない。一座だけではない。ギュネイの民の九割方は、その山の実像を知らないはずだ。
それでもこの万年雪を頂く山の名前は、マイヤーも含めギュネイの民なら皆知っている。
夏でも雪が降り積もるとか、家々がみな氷でできているとか、土が凍り付いて作物も家畜も育たぬ故に民は川虫を捕らえて食しているとか、凍え死んだ人々の亡骸が眠る氷の棺が墓地をあふれて街中にまで置かれているとか、嘘と言い切ることはできぬが真実とは掛け離れている噂話が、人々の間でかわされる。
噂の根底に幾ばくかの事実が無いわけではない。
山頂は年中雪を被っているものの、麓はむしろ他の土地よりも雪雨が少ないくらいだ。
山奥では冬の間の雪を突き固めたブロックで狩猟のための特火点を造ることはある。それは使い捨てで、春には融けて無くなる。
川虫や蚕の蛹をタンパク源の一つとして重要視しているのは事実だ。しかしそれらは常食されるわけでなく、非常食か嗜好品(虫を捕らえることをレジャーとすることも含めて)の扱いだ。
氷の棺については、魚や獣の肉を一時的に保存するため氷をくり抜いた箱を造るのを、だれかが見間違えたか言い違えたのだろう。
人々が事実に尾鰭を付けてた噂を広げたがるのには、理由がある。
山懐に、位を自分の腹心に譲った元皇帝陛下が移封された小さな国があったからだ。
哀れな老人が簒奪者から理不尽な仕打ちを受けている――物事を悲劇にしたがる判官贔屓な人々が抱く幻想が、無責任な噂を広げる。
何年か前の大きな噴火で、その小国が消し飛んだという伝聞も……それ自体何処まで本当のことなのか判らぬままに……流言飛語のいい加減さを加速させている。
兎も角も、ムスペルという言葉は寒い場所の代名詞して用いられる。
マイヤーの脳裏には、果てのない真っ白な雪原に一人放り出された己の姿が浮かんでいた。尖った氷柱が牢獄の檻を形作り、彼の周囲を取り囲んでいる。
鳥肌が立った。そのくせ、汗が噴き出る。
マイヤーもそれほどの莫迦ではない。この手強い役人貴族を言葉だけで言いくるめ、ごまかし通すのは無理なことだと、昼間の一件から察している。
それでもどうにか相手を自分のペースに巻き込んでやるぐらいはできるだろうと高をくくっていた。貴族嫌いの軽蔑心が彼の目先を曇らせていた。
あるいは、
『マイヤー=マイヨールとしたことが、クレール若様の美しさに魅入られて呆けているのか、ソードマンの旦那に睨まれて縮んだ肝っ玉が元に戻らないのか。全く、調子が狂っちまっていけない』
責任転嫁をしたくなるほどに、マイヤーは弱り果てていた。
主導権は完全に向こうが握っている。こちらは蛇に睨まれた蛙そのものに、身動き一つできない状況に追い込まれた。
湿った白い小さな固まりが、彼の足下にぽとりと落ちた。脂汗で浮き上がり、崩れ流れたドーランだった。
『ままよ』
ボロ布で額を抑え、マイヤーは頭を持ち上げた。口元に笑みが浮かんでいる。
「相済みません、閣下。只今踊り子どもに支度を直させ、すぐに幕を上げさせましょう。手前も顔を塗り直して参りますので、今しばらくお待ちいただけましょうか?」
開き直った。