いにしえの【世界】 91
耳障りな音がした。
重い物が地面に倒れ込んで壊れる音だ。
エル・クレールは音のした方へ顔を向けた。
イーヴァンもそちらを向いた。
椅子の残骸が散乱する空間に、男が立っていた。赤い剣を両手に一振ずつ持っている。一振は肩に担うように、もう一振は切っ先が足下を指していた。
赤い剣が指し示す先の古びた敷物の上には、女の下半身の形をした石像が転がっていた。
「さっき言ったろう? 一匹相手に二人掛かりは不平等だってな。こっちも片一方が怪我人になった訳だから、腰抜けでも員数合わせになろうってもンだ」
ブライト=ソードマンは釣り上げた唇の端から尖った犬歯を覗かせた。
「あ」
イーヴァンの顔が一層蒼白になった。彼はしがみつくようにして押さえていたエル・クレールの腕を放した。立ち上がろうとするも、膝が立たない。
もし彼が立ち上がれたところで、時間も力量も間に合いはしなかったろう。
ブライトは赤い幅広の刀の切っ先を、石像の臍下へ突き立てた。
エル・クレールに覆い被さっていた【月】が、弾かれたように人の背丈ほども飛び上がった。そのまま墜落した上半身は、悲鳴を上げてのたうち回った。音に表せず、文字にできない、不気味で恐ろしく、哀しい悲鳴だった。
彼女の二つに分かれた体は、おのおの、小刻みにそして不自然に振動した。
初めは筋肉の痙攣のようだった。ビクビクと伸び縮みするだけで、倒れ込んだその場から動くことはなかった。
だが振幅は次第に大きくなった。
下半身は両足をてんでに動かして暴れまわった。上半身も肩と言わず首と言わず、総ての関節がバラバラの方向を向いて、激しく振り回された。
さながら、操り手を失った傀儡人形のさまだった。
やがて下半身は収縮を始めた。暴れは根回りながら縮み、縮みながら人の脚の形を失ってゆく。
上半身も同様だった。縮んでゆく体から、他人から奪った腕が落ち、目玉が落ち、頭蓋が落ちた。
だが、額の赤い半球は、まだ赤々と禍々しい光を発している。
「誰も彼も、皆アタシの邪魔をする。アタシが、醜いから。醜いアタシが嫌いだから……。そうでしょう? 美しければ、皆アタシを愛してくれる……」
自由の利かない体を揺すり、彼女は未だ倒れたままのエル・クレールに襲いかかった。
「その顔を、お寄越し!」
エル・クレールは何も言わず、左手を前に差し出した。
握っていた【正義】のアームが見る間に光を失い、消えた。
アームの意志ではない。【月】による妨害でもない。エル・クレール自身の意思で矛を収めたのだ。
「あなたは……あなたの心は、あなたが愛した人を討ったとき、もう死んでいた。それは多分、【月】のアームに魅入られるずっと以前。あなたは『鬼』に堕ちる以前に、もうこの世の人ではなかった」
「小娘が、利いた風な口を!」
【月】は噛み付かんばかりに叫んだ。だがヨハンナ=グラーヴの体はぴたりと動くことを止めていた。
磨かれていない鏡のような彼女の顔に、ボンヤリとした人影が映り込んでいた。
目の前にいるのはエル・クレールだ。彼女以外の誰の姿も映るはずがない。
しかし、ヨハンナ=グラーヴには違うように思えた。
昔の自分、古い知己、忘れたい人、思い出せぬ顔、知らぬ他人。
全く別の誰かが、自分を見つめている気がした。
「お前の顔を寄越せ。お前の……顔を、わたしの顔を……」
【月】の叫びは、小さく弱くなり、そして消えた。
「汝の今あるべき所へ戻れ。汝の今いるべき世界へ還れ」
呪文のように呟くと、エル・クレールは【月】の、いやヨハンナ=グラーヴの頬にそっと触れた。掌が熱を帯びているのを、彼女もヨハンナも感じた。
【月】の……いや、ヨハネスと呼ばれ自身もそう称していたヨハンナ=グラーヴの顔の凹凸が、風雨にさらされた石像のように、薄く滑らかに減り始めた。
尖った顔立ちが、次第に丸く穏やかなものに変じていった。
「ヨハンナ様っ! ヨハンナ様っ!」
ようやく身を起こしたイーヴァンは、目鼻も判らなくなった石の柱に抱きついた。
「僕を見限らないでください。置いてゆかないでください。独りにしないで下さい。お願いです、お願いです」
狂乱し、泣き叫ぶ。
石の柱は細く短く姿を変容させていった。
イーヴァンの膝が折れた。地面にしゃがみ込む彼の腕の中から、赤く硬い半球の塊がするりと落ちた。
半球は埃だらけの敷物の上を滑るように転がった。
追おうとしたイーヴァンだったが、今の彼にその余力はなかった。体は一寸も動かない。彼は目玉をどうにか動かして、ようやく赤い石くれの動きを追いかけた。
半球はイーヴァンから遠く離れてゆこうという意思を持っているかのように転がったすえ、彼が動けないことに気付いたかのようにぴたりと停まった。
「ああ、あんなに遠くへ……。ヨハンナ様はとうとう僕を見限られた……」
若者は顔から倒れこんだ。腕にも背骨にも自身の体を支えかばう力が残っていなかった。
「そうでは、ないと思います」
エル・クレール=ノアールが小さく言った。
すっかり気力を失っていたイーヴァンは顔を上げることもできず、かすかな声が振ってくるのを待った。
「あの方は……君に力がないから離れた。君の心があまりに弱いから……」
事実だ。反論ができない。イーヴァンは瞼をきつく閉じた。眼球の上に満ちていた熱い液体が押し出され、溢れた。
「だから……君のご主君が君から離れたのは、君が死人に魅入られて、鬼に……人でない物に……堕ちて仕舞わぬように願ったからです……。君に自分の二の舞を演じて欲しくなかった……」
「僕は、それでも構わない。苦しくてもあの人と一つになれるなら」
イーヴァンは両腕に力を込めてどうにか身を起こし、顔を上げた。
暗がりの中に線の細い若者が立っている。
肩で息をしていた。だが鋭い目をイーヴァンに向けている。
「あの方に……また大切な人を殺させるのですか……」
エル・クレールの声は徐々に弱々しく、最後は聞き取れぬほどに細くなり、消えた。
語尾とほとんど同時に、彼女の体は大きく揺れ、後ろへ倒れた。
倒れ込む方向には、ブライト=ソードマンの広い胸があった。