いにしえの【世界】 93
 宿屋の亭主に言わせれば「宿で一番上等」だという部屋の、立て付けの悪い古びたドアの前に、フレイドマル一座の踊り子が二人、門番よろしく立っている。
 エル・クレールとブライトがシルヴィーを抱えて芝居小屋にやってきた時に、小屋の外で小道具の修繕をしていた娘達だ。
 彼女らは二人とも本名をエリーザベトという。仲間達は二人を「痩せのエリーザ」と「雀斑そばかすエリーゼ」と呼び別けていた。
 二人は一座の踊り子の中では背丈が高い部類だった。演目によりけりではあるが、男役を務めることが多い。
 そのためもあってであろうか、普段から言葉も少々強めであり、態度も幾分横柄な所がある。
 彼女らは医者以外の「男」がやって来ると扉の前に立ちふさがる。そうして、怪我人の見舞いをさせろという彼らに向かって、口角泡を飛ばしてまくし立てる。
「冗談じゃないよ。だれがお前なんぞをお可哀相な姫若様の寝所に入れたりするものか」
「医者様の見立てじゃ、腕の骨が折れているばかりか全身の骨という骨にヒビが入ってるうえに、筋という筋が切れたり伸びたりしてるんだよ」
「普通なら、死んじまったっておかしくない大怪我なんだ。上を向いたら背中の怪我に、下を向いたらおなかの怪我に障る」
「布きれ一枚だって傷にさわってご覧。気を失うくらいに痛むっていうんだ。しかたなしに、半分裸みたいな格好でおられる」
「息をするのだってやっとなんだ。その息だって、ホンの少しずつ、そっと吸ったり吐いたりしておられる」
「そんなところに、お前が吐きちらかす生臭い息なんぞが混じりでもしてたら、高い薬だって効き目が出ないに決まってるじゃないのさ」
「とっとと失せな。この下種どもめ!」
 耳の先まで真っ赤に染めて激しい早口で言われては、男共には口を挟む余地がない。皆、彼女らの剣幕に押されてすごすごと引き返す。
 では女の見舞客は総て通されるかというと、そうでもない。「門番」の同僚である踊り子の内の、ごく一部の幾人かは、男共とほとんど同じ台詞を頭の上から浴びせられ、追い払われる。
 追い払う相手と通す相手の区別は、門番二人が着けているらしい。
「追っ払うのは、姫若様のお体に障る連中だけですよ」
 ブライト=ソードマンの前に立ちふさがった二人のエリーザベトは口を揃えて言った。
「つまりは、色狂いの色気違いの助平の変態野郎ですよ。女の内にもそういうのがおりますからね。男だろうが女だろうが、そいつの心持ちが良くなけりゃ、一切姫若様には近づけたりやしません」
「すっかりお弱りの姫若様には、ほんの僅かな淫らがましい気配でも、酷い毒になりましょうからね」
「この俺からも毒気が出てる、ってか?」
 居丈高に胸を反らせると、ブライトは目を針のように鋭く細め、尋ねた。踊り子達は一瞬おびえ、またひるんだが、すぐに勇気を振り絞って、
「旦那もです」
 きっぱりと答えた。
「俺ほどアレのことを心配しているニンゲンは、他にゃ居ないってぇのにかね? 大体、俺はアレの……」
 言いかけて、しかしブライトは言いよどんだ。自分とエル・クレール=ノアールとの間柄を的確に表す言葉が存在しない。
 エリーザベト達は彼が言葉を探しているほんの僅かな隙間に、自分たちの声をかぶせた。
「旦那と姫若様が、ご家臣なんだか、師弟なんだか、友達なんだか、同志なんだか、兄妹なんだか、妻夫なんだか、家族なんだか、他人なんだか、アタシ達は存じ上げません。存じ上げませんけれど、特に別して、旦那はダメです。毒が強すぎます」
「この俺が何処からあいつの毒になるような邪さを出しているって?」
「頭の先から、足の先まで、全身からぷんぷんと」
 エリーザとエリーゼは合唱でもしているようにぴったりと息を合わせて言い切った。
 そしてブライトが何か言い返そうと息を吸い込んだその瞬間に、集団舞踊の振り付けのようにぴったりと動きを同調させて辺りを見回した。
 宿屋の廊下には彼女らとブライト以外の者は居なかった。彼女らが全部追い返してしまったのだから、当然ではある。
 二人はそれでも慎重に、声を殺して言葉を続けた。
「旦那が姫若様を心配しているのはあたしらにだってよくわかる。でもその心配の気配が、姫若様には良くないんですよ」
「ああいう真っ直ぐなお方は、自分の所為で相手が心配していると思えば、無理をして平気な風に振る舞っちまったりするもんなんです」
「自分を大人に見せたいお年頃でしょうしね。相手が大人であればあるほどにね」
「そうそう、旦那は大人でいらっしゃいますからねぇ。商売女の扱いは見るからにお上手そうだ」
 踊り子達はブライトの頑丈な肉体を舐めるような視線で眺めた。
 視線が彼の不興な顔に至ると、二人は気恥ずかしそうに取り繕いの笑顔を浮かべ、言葉を続ける。
「旦那は若い生娘が……いえ、娘に限ったことじゃないですよ。つまり姫若様のような年頃の純な子供ってものが、どんなに繊細で複雑なのか、自分だって子供の頃があったでしょうに、すっかり忘れっちまっているでしょう?」
「だから、旦那はご自分の心配を体中から吹き出させてることがどれだけむごいことなのか、心配される方の申し訳なさを察しておあげになれない」
「ま、あたし等も擦れ具合じゃあ旦那のことなんぞ言えやしませんけれどもね」
「もうすっかり真っ黒だからねぇ、あたし達は」
 エリーザとエリーゼは顔を見合わせると、淫猥と自嘲を混ぜて、クツクツと笑った。
 その笑いもやはりすぐに止んだ。
 ブライト=ソードマンが笑っている。静かに、穏やかに、優しげに微笑んでいる。
「一つ、訊きたい」
 彼の眼差しが、鋭く、険しいことに気付いたエリーザベト達は、顔を強張らせ、背筋を伸ばした。
「ウチの姫若の『秘密』を、知っている阿呆はどれくらいいるものかね? 医者は省くとして、だがね」
 柔らかい声音で聞きながら、ブライトは忙しなく指先を曲げ伸ばししていた。節くれ立った手指が拳の形になる度に、エリーザとエリーゼは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「四人」
 二人は声を揃えた。
「あんた方以外には、誰と、誰だね?」
「シルヴィーとおっかさん」
「おっかさん?」
「マダム・ルイゾン……ウチの一番の年寄りで、座長もマイヨール先生も頭が上がらない人です」
「つまり、『そのこと』を他の誰にも言わないと『命がけ』で約束ができて、しかも他の誰にも知られないように抑えが効く人、ということかね?」
 妙に優しげな声だった。その穏やかさが、逆に恐ろしい。
「さようで」
「決して」
 二人のエリーザベトは同時に、低く抑えた声を絞り出した。
「そいつは良かった」
 ブライトは笑みを大きくすると、病室ドアに背を向けた。
 彼の姿が廊下の角を曲がって消えるまで、エリーザベト達は無言で直立したまま見送った。
 その後、彼女たちが
「あの旦那、よっぽど姫様が大事と見えるねぇ。……惚れてるのかね?」
「そりゃぁ、あんな綺麗な姫様だ。旦那じゃなくたってベタ惚れだよぉ」
 などとささやき遭っていた言葉は、さすがのブライトの耳にも届かなかった。

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