フツウな日々 30 |
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Y先生はちらっと後ろを見た。
お風呂の出口の外にある壁に、丸い時計が一つ掛かっている。短い方の針がIが三つ並んだローマ数字の近くを指し示していた。
「約束だから、おやつに桃を剥かないとね。あの子も一緒に食べてくれると良いんだけれども」
先生は手招きをし、歩き出した。龍は急いで脱衣所から飛び出した。
一歩出た廊下で、彼はふと後ろを振り返った。
脱衣籠の縁に、湿ったバスタオルの端がだらりと引っかかっている。その様子を、彼はなんだかどこかで見たことがあるような気がした。
龍の体に付いていた水滴を全部吸い取ってくれたタオル。ふわふわした表面が、次第にねっとりと重くなって行く感触。じっとりと水がしみこんで、重たくなった布。
どこかで見たことがある。
どこかで感じたことがある。
つい最近。
ついさっき。
龍の背中に寒気が走った。脱衣所に充満しているぼんやりとしけった空気が、なぜか冷たい。
龍は脱衣所のドアをぴしゃりと閉めた。
白い湯気がドアの隙間からするするとあふれ出る。それは竜巻みたいにぐるぐるとねじれて、細く長く伸びてゆく。
怖い。何が怖いのか判らないけれど、怖い。
そう感じた途端、龍は自分の体の中の何かが自分の体から落っこちて、地面の奥に吸い込まれていったような気がして、情けない声で叫んだ。
「うわぁ」
膝も腰骨も背骨も、体をまっすぐに立てておくことができなくなった風で、龍はその場にぺたんと尻餅を付いた。
手足も思うように動かなくなった。足の先の方が地面にめり込んでいるような気分で、立ち上がることもできない。
「どうしたの!」
Y先生は血相を変えて龍を抱きかかえ、彼の体を引っ張り上げて立ち上がらせた。
さっきまでお風呂で暖められてピンク色に上気していた龍の顔が、真っ白になっていた。
「落ちた、おぼれちゃう」
紫色の唇をガタガタ震わせながら、龍は先生にしがみついた。
上目遣いで天井を見る。薄い黄土色の天井には、ワックスでぴかぴかに磨かれた廊下に弾かれた金色の光がゆらゆらと揺れていた。
龍の目の前を、白い湯気がゆっくりと上昇してゆく。
白い渦巻きの中に誰かがいる。その誰かが、自分を置いて行ってしまう。
取り残される。一人きり置き去りにされる。
「待って!」
龍は叫んでいた。
自分の叫び声が遠くから聞こえた。
上からも下からも右からも左からも前からも後ろからも、ギュウギュウ押さえつけられているような気がした。
龍は掌を上へ突き上げた。手の甲も爪の先も真っ白だ。
自分の掌が遠くに見える。
怖いという気持ちが、ギシギシと音を立てて彼の体を押しつぶしてゆく。
「待って」
もう一度、龍は言った。それは小さくて誰にも聞こえない声だった。
実際Y先生には声が聞こえなかった。
先生は彼が唇をブルブルと震わせているのだと感じた。そして彼が急に「怖かったこと」を思い出したのか、あるいは急に具合が悪くなったかして、体を痙攣させているのだろうと考えて、彼の体をぎゅっと抱きしめた。
(確かに龍は、怖かったことを思い出して、急に具合が悪くなったには違いなかった)
龍は先生に抱きつき返さなかった。だからといって、先生から離れようともしなかった。
彼は先生がそこにいることを忘れていた。それどころか、自分が先生の家にいることも、キレイさっぱり忘れていた。
彼の頭の中では、ゆらゆらと揺れる金色の光と、ぐんぐん上ってゆく銀色の泡と、ざわざわ揺れる木の枝とが、一緒くたになってぐるぐる回っている。
そのぐるぐるの向こう側に、いくつもの石の塔が見え隠れする。
石の表面には文字が刻まれていた。
龍の、できることなら見たくもない文字だった。そして絶対に声に出して読みたくない文字だった。
なのに。
龍の唇はそう声を出すように動いて、喉もその音を出すように動いて、その上に肺がちょうど良くへこんだ。