フツウな日々 31 |
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「『トラ』」
確かな声がした。龍は自分の声が怖くなって、ぎゅっと目をつぶった。
瞼に涙が押し出されてこぼれた。頬骨からほっぺたの上を流れる間に、それはひんやりと冷たく冷え切った水玉に変わった。。
天井が回っている気がした。目をつぶっているから、本当に天井が回っているのか、そんな気がしているだけなのか、それとも自分の体が回って落ちていっているのか判らない。
「助けて」
腕を突き上げる。龍の腕は何にもない空間で頼りない水草みたいにゆらゆらと揺れた。
掌を大きく……指の間が裂けるくらい大きく広げる。指にも掌にも何も触るものがない。
指先から戻ってくる血液が冷たい。二の腕の筋肉がぴくぴく痙攣する。
「助けて、『トラ』」
言った直後、彼の指先にひんやりとした物が巻き付いた。
そっと目を開けた龍は、中空に漂っている自分の指が、細くて白い、そして冷たい別の指に握られているのを見つけた。
指は白い腕に繋がっている。長い腕は華奢な肩に繋がっている。肩の上には少し長い首があって、首の上にはまぁるい頭が乗っていた。
遠くに見えるその顔は真っ白で、短く切りそろえられた真っ黒な前髪は少し湿っているようで、わずかに前に垂れ下がっている。
ほんの少し八の字に下がった眉毛の下には、黒目がちな瞳が不安そうに光っていた。
「『トラ』?」
龍の耳に、そう言う自分の声が聞こえた。同時に、
「ひぃちゃん?」
そう呼ぶY先生の声も聞こえた。
龍は混乱した。自分の声と先生の声はどうにも不共鳴で、絶対に重ならない物としか思えない。
でも、自分の目と先生の目が同じ物を見ているのは間違いなかった。
2つの視線を受けている、「トラ」とも「ヒメコ」とも呼ばれている人物は、困惑顔で龍の手をしっかり握ったまま、と小さく言った。
「うん」
細い指先で、きれいに切りそろえられた爪がピンク色に光っている。
「『トラ』が、『ヒメコ』ちゃん?」
龍が訊く。
「うん」
困り顔が上下に揺れる。龍は混乱して来た。
どうしても「トラ」という名前の友達と、「ヒメコ」という可愛らしい名前の知らない女の子とが同じ人のことだとは思えない。
だいたい「トラ」が「ヒメコ」ちゃんだったら、「トラ」が女の子だということじゃないか。
混乱した龍はもう一度訊いた。
「『トラ』で、『ヒメコ』ちゃん?」
訊いておいて、自分でちょっと可笑しくなった。
前の質問と、一文字しか違っていない。
なんだか可笑しくて溜まらないのだけれど、名前のことで笑うのは「トラ」な「ヒメコ」ちゃんに悪いと思った。だから唇をぎゅっと引き締めたのだけれども、ほっぺただけはこらえきれずに、ぴくりと持ち上がった。
「トラ」とも「ヒメコ」とも呼ばれているらしいその子は、龍をじっと見ていた。
そうして、彼の頬がぴくんと動くと、気恥ずかしそうにニコリと笑い、小さく
「うん」
とうなずいた。
龍はホッとした。
自分が「トラ」な「ヒメコ」ちゃんの名前のことで笑ってしまったことを、「ヒメコ」ちゃんな「トラ」が怒っていないらしいというのが判ったからなのか。
それとも「トラ」の笑顔を久しぶりに見たからなのか。
判然としないけれど、多分両方の理由が正解だ。
ホッとはしたけれど、それでもまだ龍はちょっと混乱していた。
「どっちで呼んだらいい?」
龍は「トラ」で「ヒメコ」ちゃんな友達の手をぎゅっと握って、訊いた。
「ヒメコ」ちゃんな「トラ」は龍の手をちゅっと握り返すと、気恥ずかしそうで、寂しそうで、嬉しそうで、悲しそうな笑顔で答えた。
「どっちでも良いよ。どっちもボクの名前だから」