みまちがい − 2 【2】

 信幸は疲れ果てていた。
 自分の一挙手一投足が真田家と信濃の命運を分ける、すこぶる危険な立場に置かれている。いや、その危うさには馴れていたはずだ。武田が滅びて以降、信幸がそういう状況の中で暮らさなかったことはない。
 胃の腑《ふ》のあたりを軽く撫でた。生来頑丈な身体であるが、なぜか時折はらわたの調子だけが崩れることがある。
『槍を持って戦場にいる方がよほど気が楽だ』
 城下に小さいが屋敷が与えられていた。わずかな家人達がいる。その中には上田や沼田から連れてきた家臣達も居た。それを年若い新妻の小松が取り仕切っている。
 その家に、早く帰りたい。
 前屈みになりがちな背筋を、意識して伸ばした。
 視線が高くなる。
 胸を張った。
 虚勢ではあったが、勢いが湧き出る。
 歩を進めた。
 その一歩が、ずるりと滑った。
「待て、待て、少し待て!」
 背後で叫ぶ声がする。振り返れば、廊下の端から武士が一人駆けてきている。
 体に見合わぬ長さの、金銀の蝶が舞う柄の羽織の裾が、ひらひらとなびいている。揚羽蝶が羽ばたいているように見えた。
 中肉中背、骨太の体つきに四角い顔、城中だというのに腰に三尺五、六寸はあろうかという太刀を手挟んでいた。鞘の先が床に擦れている。
 信幸はこの武士の顔も見知っている。
 大久保彦左衛門忠教《大久保 ひこざえもん ただたか》だ。
 信幸よりも七、八歳年長の筈だが、顔つきはそれ以上に年寄りじみている。
 忠教は信幸の一間前で、急に走るのをやめた。
 両足をぴたりとそろえる。
 走り寄った勢いは、両足がそろったままなお、忠教の身体をすぅっと滑らせた。
 滑って、信幸のとぶつかろうかという直前、三寸ばかり手前でぐっと止まった。
 背の高い信幸の鼻先に、忠教の髷がある。
 信幸は一歩引いて頭を下げた。忠教は家康が大名として自立する以前より仕えている、古参の三河武士である。新参者としては敬意を表する必要があった。
 すると忠教が一歩前へ出た。
 信幸が今一歩下がる。また一歩前へ。下がる。前へ。
 幾度か繰り返した後、信幸は、
「手前に何かご用でありましょうか?」
 不信感を胸三寸に隠し、努めて穏やかに問うてみた。
「用も用。大ありも大ありじゃ」
 忠教は顎をぐいと持ち上げた。しみじみと、じっと、信幸の顔を見る。
「うむ、その面じゃ。間違いない」
「手前の顔が、どうかいたしましたか?」
「お主、真田源三郎と言ったな。上田の、神川の戦のおりは、ようも儂らを散々な目に遭わせてくれた」
 忠教の口振りは、心底怒っているようであり、懐かしんでいるようでもあった。
「何分手前も武士にございますれば、主命を拝すれば存分な働きをいたすのみにて」
 それ以外に言い様がない。信幸は小さく頭を下げ、斜め後ろに一歩引いた。そのまま振り向くつもりだった。忠教が同じ方向に動かなければ、そうできた。
「おお、その身のこなしよ! あのときもそうであった」
「あのとき、と申されますと?」
 聞き返しはしたが、信幸には、いずれ上田城下の合戦の時のことであろうという察しが付いていた。
「うぬらの小賢しい火攻め水攻めに、口惜しくも逃げ出そうという我が勢の殿軍、儂が獅子奮迅に堪え働いたそのときよ!」
「はあ……」
 信幸は神川合戦の状況を思い起こそうとした。しかし忠教の大声が思考を阻む。
「お主、天から降ったか地から湧き出たか、突如として現れ、小勢を率いて追い打ちを掛けてきたであろう。馬を煽り、大薙刀《おおなぎなた》を振り回して攻めてきた。刃が風斬る音が耳元に聞こえて、肝が冷えき


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まろやか連載小説 1.41
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