たった三文字からなかなか目を離すことが出来ません。私は顔も上げず、どうにか目玉だけを持ち上げて、
「垂氷《つらら》」
呼ばれた垂氷めは、不調法にも白い顔の半分と黒い目玉だけを、僅かに引き開けた襖の隙から覗かせました。
なにやら奇妙なイキモノでも見るかのような目で、私と向き合いで座っている出浦対馬の柔和そうな丸顔を、ちらちらと見ています。
「父の命で碓氷峠へ行くことになった」
「お供いたしますとも」
間髪を入れず、応えが返ってきました。
間髪を入れず、私も返答しました。
「お前はこの対馬と厩橋に向かってくれ」
「はいはい」
なんとも気楽そうに応えたのは、出浦盛清でした。素早くひょいと立ち上がります。
襖の向こうでは黒い目が輝いておりました。
「慶様との繋ぎですか?」
その人の名を聞いて、私は漸く頭を持ち上げる気力を得ました。
「前田宗兵衛殿は厩橋には居られぬ。今頃は武蔵国の当たりまで出張っておいでだ」
私は意識して硬い口調で、断定的に言いました。
襖の陰の目の光には、失望のような不安のような色が加わりました。
「では、何を?」
「厩橋に証人がいる」
垂氷が何か言いかけましたが、その前に盛清が、
「つまり、手薄な城に忍び込むか急襲するかして、厩橋に閉じ込められている於照様をお助けしろ、ということでありますな。承知承知」
ひょいひょいと歩むと、開き掛けの襖を大きく開け放ちました。
「さ、参ろうかね」
垂氷は盛清の柔和顔を見上げ、固唾を飲み込むと、頭を振ったのです。
「嫌でございます」
これを聞いて盛清は私の顔色を窺い見つつ、
「……と、申しておりますが?」
丸い狸面は、呆れたというでもなく、困ったというでもなく、むしろおかしくてならないといった具合の色をしておりました。
私は何も言いませんでした。言わぬ侭、垂氷めの目の玉のあたりに視線を投げておりました。
すると垂氷はブルリと身震いしたかと思うと、急に居住まいを正して、
「私は砥石の殿様から、若様の武運長久を祈祷をする役目を仰せつかったのです。お側に居らねば、祈祷が出来ません」
真面目な顔をして申したものです。私は少々可笑しく思ったのですが、笑うことは堪えました。
「使いに出ろと言ったときには、走るのが好きだ等と申して、喜々として私から離れて何処までも行くではないか」
そこまで言うと、一呼吸置いて、
「それとも、慶次郎殿が居らぬ厩橋には興味がないか?」
意地悪く言い足しました。
すると垂氷は激しく頭を振りました。
「それは違います。断じて違います」
「では、何故だ?」
「私が若様のお使いに出るのは、行って帰って来いというご命令だからです。『行け』と言うだけのご命令ならば、キッパリ御免にございます」
垂氷は吻《くちさき》を尖らせました。おかめがひょっとこの面を真似しているようでした。これを出浦盛清がしみじみと眺め見て、
「仲のお宜しいことは何よりなんですがねぇ」
などという事を申しますと、拗ねてそっぽを向いた垂氷の奥襟を矢場《やにわ》に掴んだのです。
「さて、行くよ」
盛清は掴んだモノを引き摺って歩き出しました。
その様は、田舎の禅寺に幾年幾十年も掛けっぱなしにされてたっぷりと抹香に慰撫された軸から抜け出てきた釈契此《しゃくかいし》の様に見えました。
ただ、狸面の布袋尊が引き摺っているのは頭陀袋《ずだぶくろ》などではなく、生きた人間です。それも垂氷です。温和しく引き摺られてゆくはずがありましょうや。
暴れました。
裳裾がはだけるのも意に介せず、手足と