小懸 ―真田源三郎の休日―【本編】 − 【8】

 まごうことなく、森武蔵守長可その人です。
「……これは、一体?」
 義昌殿が驚き、怯み、そして震え上がるのは当然のことでありましょう。
 眉が太く髭の濃いところを除けば、まるで若党かおなごのような優しげな顔に笑みを満たした森武蔵守長可殿は、
「なに、この時節暑さが厳しかろうから、兵の消耗を考えればこちらへ着くのは明日あたりと踏んで、過日はそのつもりでお伝えしたのだがね。ところが今日の日和と来たら、春先の如き涼しさであったろう? 御蔭で道行きが捗ること、捗ること!」
 半ば武装とも云えそうな旅装解かぬ侭に、義昌殿の真正面にドカリと腰を下ろされました。
「ところが着いてみれば門が閉まっているではないか。致し方なく叩いたと云う次第だ。しかし伊予殿、城主たる貴殿を前にこのように云うのは申し訳ないが、この城はあまり堅固とは云えぬぞ。木槌二つで門扉が壊れるようでは、のう!」
 膝を叩き、さも楽しげに声を上げて笑われたそうです。
 この時義昌殿は、鬼武蔵殿の哄笑と、得体の知れぬ「音」が混じった物を聞いたに違いありません。
 庭と知れず、屋内と知れず、不寝番の者共も、眠っていた者共も、恐慌を起こして走り回っていました。ありとあらゆる場所で、味方、あるいは「客」と鉢合わせが起きていたのです。叫び声、わめき声、泣き声、物がぶつかる音、壊れる音、壊される音が、城内到る処で立ち、到る処から響いていたはずです。
 あるいはしかし、耳にしても聞こえてこなかったのやもしれません。
 義昌殿とすれば、周到に計画し、万全の容易をして、相手の不意を突くつもりが、逆に先方から奇襲を掛けられた格好なのです。
 大いなる決心の上の策略が瓦解してゆく、その恐ろしさが、義昌殿の脳漿の働きを止めてしまったとしても、不思議ではありません。
『何が何やら判らない』
 義昌殿は、ただ眼を明けて、息をしているだけの人形のようになっておいででした。
 慌てふためいた幾人もの家臣が主君へ事態を報告をし、指示を仰ごうと、その元へ駆け付けました。
 しかし彼の者達の主君は、返答も下知もできぬ有様です。
 そんな主君の様子を見て不審に思った彼等は、主君が何も語らぬ理由を探し、辺りを見回したことでしょう。そしてこの時漸く、彼の者達は、主君の眼前に広がる暗がりの中に「鬼」を――完爾として笑う森長可を見出すこととなるのです。
 ある者は息を呑み込み、あるいは悲鳴を上げ、あるいは怯み、あるいは腰を抜かして尻餅を突きました。
 武士が、です。それも元は勇猛果敢な、向かう所敵無しと称された武田武士であった者共がです。
「なんだ、木曽福島には人が居らぬらしいな。なるほど、人のいない城では、門も脆いが道理というものか」
 森長可殿が呵々大笑なさいました。
 反論できる者がいないと言うこともまた、嘆かわしいことでした。
 しかし、その場にもただ一人、声を上げる者が居ったのです。
「なんということだ! もののふとあろうものがなさけないぞ」
 見事な大喝であったそうです。しかし幼く、舌足らずな声音であったことでしょう。
 ふぬけ達が振り返ると、そこには童子が立っておりました。
 年の頃は五、六歳ばかりの男の子でありました。
 幼いながらに眉の凛々しい、勘の強そうなお顔立ちで、小さな体の上に着崩れた寝間着を羽織り、その帯に立派な拵えの小太刀を手挟んで立っていたそうです。
 木曾義昌殿の顔が土色に変わりました。
 餌を求める鯉のように口をぱくぱくと動かされたといいます。
 ご本人は恐らく、
「岩松丸、来るでない」
 というようなことを


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