序章 − 転換 【4】

 冷たい風に頬を撫でられ、主税は意識を取り戻した。
 頭上遙かに開けた針先のような空間から、暖かい光が射し込んでいる以外は、全くの闇が辺りを包んでいた。
 手が、酷くざらつく。よく見ると、手の甲は土にまみれている。
 ズボンで拭おうとしたが、むしろそちらの方が泥まみれであるということに気付いた彼は、瞬時に
『落ちた』
と悟った。
 どこから?
…あの針先のような空間から。
 相当に高い、あの場所から?
…それににしては自分は怪我をしていない。
 自分…は?
 腕の中に、なにもない。抱えていたはずだ。大切な…
「優! どこだ!?」
 語尾が、ワァンと反響した。
 この空間は、広い。
 そして明らかに人工的だ。床は煉瓦引きだし、壁は漆喰様に白い。
 主税は闇の中に目を凝らし、ゆっくりと立ち上がった。
「優! 優!?」
 声は揺れながら、一つの方向へ流れた。
 風上へ。
 冷たい風の流れにさからって、声が闇に吸い込まれてゆく。
 そして。
「…ラ…カラ!」
 冷たい風の流れに乗って、声が漂って来た。 それと同じ距離から、ゆっくりとした軽い足音が2つ聞こえる。足音は、間違いなく赤石主税に近づいて来ていた。
「チカラ! 良かった、気が付いた!」
 緑川優の半分泣いたような声と、一滴の水が床にこぼれ落ちた音と、ぱたぱたと軽い足音が同時に聞こえ、同時に近づいてくる。
「チカラ、目覚ましたね。良かったよぉ」
 泥だらけの優が、主税の胸へ飛び込んできた。
 冷たい水が一滴、主税の頬に跳ね飛んだ。
「頭から血が出てたから。呼んでも、全然、動かないし。でも、息はしているから。それで、水の流れる音がして。だからチカラに水を汲んできてあげようと思って。それで…」
 普段は子供ながら脈絡の通った話しぶりの優だが、今は言葉がひどく混乱している。
 当然といえば当然だ。保護者であり友人であり、この度の唯一の道連れである主税が、怪我をし、意識を失っていたのだから。
「判ったよ、ありがとう」
 主税は優の頭を一なですると、
「折角だから、その汲んできた水ってヤツをくれないかな。…それと…」
視線を持ち上げ、闇の中を見据え、その中にいる気配へむけて低く唸るように訊いた。
「お前は、誰だ?」
 気配はふわりと沈んだ。
 小さな光がいくつも瞬いて、主税の足許にひれ伏す、若葉の香りのする羅紗に身を包んだ者の姿を照らし出した。
「私はシロネン。この地の管理者。長く眠り続け、目覚める季節を待ち続けた者」
 顔を上げた。
 萌葱色の髪は肩までの長さ。
 両耳に下がる真円の環は鈍く光る金。
 長裾のゆったりとした衣。
「シロネン?」
 主税の研究対象であるアステカ神話に、そんな名前の女神が登場する。シロテ(熟していないトウモロコシの実)を司り、その穂を病や不作から守る女神だ。
「若いトウモロコシの女神が、こんな洞窟の底にいるなんて、大した冗談だな」
3000年の昔、中南米の現住民族の大地では、様々な祭りが行われていた。現在の太陽暦で7月終わりほどに当たるトウモロコシが実る直前の時期…それは丁度、前年収穫した穀物の蓄えがつきるころでもある…にはシロネン女神の祭りが行われた。
 求める者達全てに充分な食料が施され、歌と踊りが神殿を飾る。
 シロネンの祭りは来るべき収穫の前祝いであり、充分な食料を蓄えられなかった弱者の救済であった。
 何にせよ、若さと命と豊穣の象徴であるシロテの女神に、闇や地下は似合わない。
「あなたにもこの地は似合いません。我が王、カマシュトリ様」
 その幼顔の娘は、懐かしげな笑


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