リオン・クミン記《七》
切り落とされたガイアの右腕は、その後、複数の医者によって検査された。
医師達は、
「神経も血管も筋肉も腱もズダズタに千切れている以外は、何の変哲もない腐乱死体である」
と断じた。
私もそれに同意した。事実それはただの肉塊であろう。
現場にいたあの医師と下男は当初納得しなかったが、医師団長が、
「皮下から微量の火山性ガスと腐敗ガスの混合物が見付かった。これは神経に影響を及ぼす可能性がある」
と言ったことにより、
『あの光景は幻覚』
と言うことで納得したようだ。
ガイアの回復力は驚異的であった。腐敗していた右腕を切断したのが彼女の身体にかけられて負担を軽減させたためであろう、と医者達は言った。
間違ってはいまい。事実に違いない。
ガイアの「右腕があった場所」は、皮膚を無理矢理に近い形で背中や胸から引っ張り寄せて縫合した、大きく攣った手術痕の中に埋没していた。
やがて抜糸の時を迎えた手術痕は、見ようによっては獅子の横顔の紋章にも思える赤い痣となっていた。
「快調ですよ」
相変わらず青白い顔をしたガイアは、しかし落ち着き払った声音で言う。
それなのに……ふわりとした彼女の笑顔が間近にあるというのに、私はまだ安堵を得ることができなかった。
私は「アームに心奪われた者は【オーガ】に堕ち、【オーガ】に堕ちたた者は死を迎えると肉体を失う」ものだ、と、命を総て使い果たして後、赤い宝珠「【節制】のアーム」を残して消滅したレイモンド・ノギアの様を見て、知っていた。
ところが。
ガイアが【オーガ】へ堕落しなかったのは、事件と負傷により心労はなはだしかったとはいえ、彼女の意志の強さが【力】に勝っていたためだと判る。
それでも右腕だけが魔物に転じたのは、それこそ彼女が心労はなはだしかったためであろうとも考え及ぶ。
しかし。
彼女を取り込むことができなかった【力】により【オーガ】とされたガイアの右腕は、切断され死を迎えたというのに、その形状を残したまま「【力】のアーム」に変化することがなかった。
何故だろう。
まさか【力】は未だにガイアに取り憑いているのではあるまいか?
私は凍り付くような焦燥に駆られ、思わずガイアを掻き抱いた。
背中越しに伸びた右腕の骨張った指が、ふさがれたばかりの傷跡に触れ多時、ガイアと私は同時に小さく悲鳴を上げた。
ガイアの悲鳴は痛みのためであろう。
私の悲鳴は、熱さのためであった。
およそ人間が……命持つものが発することはないであろう高熱。それは、私自身の身体がかつて発したことのある灼熱と、同じ感触を持っていた。
ガイアは脂汗の浮かんだ頬を震わせて、
「まだ【彼女】の声が聞こえます」
と、笑んだ。
悪い予感は当たっていたのか? 私は不安に駆られるまま、訊ねた。
「まだ復讐の勧誘をするのですか?」
「いえ……ただひたすら『生きたい』と繰り返すのです……ここで」
痩せ細った左の指先が、私の右掌の下を示した。
「【彼女】の叫びは私の胸を苦しめる。……私もそう思っております故。
命を持つものであれば、例え屠殺される定めの家畜であっても、儚い薄羽蜻蛉であっても、野の草木であっても、誰でもそう思っている。
だから私は……【彼女】を黙らせることができない」
風に吹かれた枯れ尾花のように、ガイアは私の胸に顔を埋めた。薄いシャツ越しに、涙が冷たく流れ落ちるのを感じる。
私は何も言えず、ただ彼女の背を撫でさすった。
肉のそげ落ちた肩が二,三度小さく揺れ、その後、一度大きく上下した。
「【彼女】を黙らせることができないと悟ったら、逆に胸のつかえが落ちたのですよ。私が生きている限り、ずっと【彼女】の叫びを聞き続けてみようとまで思えてきた。……可笑しいでしょう?」
ガイアは顔を上げた。頬の肉が痙攣している。唇は泣いているようだったが、目は笑っていた。
私の不安は、こうして消えた。
ガイアは、やはり強い女性であった。誰よりも強い人間であった。
私は私の人物鑑定眼に感謝した。
「それと……」
唐突にガイアは枕の下へ手を入れた。
ウエハースのように平らな枕と敷布の間から出てきたのは、ひしゃげた金の輪であった。
飾り気のないその小さな金輪に、私は見覚えがあった。
この古ぼけた、飾り気のない金の輪には、確か赤珊瑚の玉が付いていたはずだ。
「あの『事件』の朝、赤い珠が取れてしまった……。何とか嵌め込もうとしている内に気付いたのですが」
ガイアは「珊瑚玉」が付いていた跡の、曲がった縦爪の辺りを私に示した。
「何か、刻まれているのが見えますか?」
確かに「珊瑚玉」の真下に当たる部分、玉があれば絶対に見えない場所に、無数の細かい筋が見えた。
「指輪を加工したときに付いた傷ではありませんか?」
「私も最初はそのように思いましたが」
私はガイアの手からその古い指輪を受け取り、その一点に目を凝らした。
眩暈がするほど凝視した果てに、私はその筋が文字であることに気付いた。
髪の一筋よりも細い、寄り合わせる前の絹糸の一本よりも幽かな、しかしそれは確かな筆跡であり、文字であり、文章だった。
私が顔を上げると、ガイアは困惑した視線で、
「古い文字のようで、私には読めぬのですが、貴男になら判読できるのでは、と」
「博学なガイア・ファデッド卿が読めぬものを、この私が読めるとでも?」
「はい」
ガイアの視線から困惑が消え、澄んだ光が満ちた。
私は再び指輪に目を落とした。
確かに古い文字であった。
粗野で力強いクサビ跡のごとき斑文は、四百五十年昔までは確かに文字として通用していたが、今では読める者も少ない。
「『愚か者達よ
汝らの世界に審判の時が来た……』」
私の唇の僅かなふるえを、ガイアは驚嘆の眼差しで見た。
「やはり、レオン殿!」
「文字を読んでいる訳ではありませんよ」
「え?」
「かつて、ジン帝国時代以前の歴史を研究していた学者がこの文字に『擦紋文字』という呼び名を付け、翻訳を進めていました。……三十年以上昔の話です。
ところが、ギュネイ皇帝によりその研究は中止を命ぜられた。勅命ですから、学者は史料と研究内容を総て廃棄しなければならなかった。
しかし、彼はある碑文の写しとその対訳のみは、捨てずに取っておいた。理由は判りませんが、おそらくは若い日に己が打ち込んだ情熱を、消し去ることが心苦しかったのでしょう。家族にすら知れない、一番安心できる場所にそれを隠していたのです。
好奇心旺盛な一人息子が、両親の寝室に飾られた絵画の裏張りを破がして見ることは、まるで予想できなかったようですが」
「その学者というのはもしや、かつてのハーン皇帝の御学友で、今ミッド大公家祐筆を勤める者のお父上に当たる方では?」
ガイアは笑った。寂しさも笑顔も苦痛も隠されていない本当の笑顔を、満面に浮かべた。
「彼の名誉のためにも、その悪戯な小倅のためにも、このことは口外無用に願います」
私が唇に人差し指をあてがいながら言うと、ガイアは無性に楽しいといった感の微笑みで同意を返してくれた。
「そのような次第で、私はこの文字を読める訳ではないのです。ただ、この文章はこういった意味であると、丸暗記しているに過ぎません」
「でも、意味が分かることは間違いない」
「そう言うことになります」
私は一つ息を吐き、暗記していた文字列を記憶の中から呼び出した。
「『愚か者達よ
汝らの世界に審判の時が来た
太陽と月と星の光は
崩れ往く物見の塔のように
悪しき者に魅入られている
戒めよ、死に向かいし者よ
つり下げられた者達よ
正義は運命の輪に組み込まれ
隠れ棲む者の力となる
戦場を駆ける馬車は
愛し合う者達を引き裂き
いと高き神の僕も
玉座のに坐す男も
権力ある女も
知識ある女も
魔術に翻弄され
木ぎれも剣も役には立たぬ
数多の金貨も聖杯の対価には足らぬ
やがて総てが無に帰るのであるから』」
これだけの長さの文章だが、擦紋文字なら僅か三十字足らずで表せる……と父の研究結果が主張している。線の数と組み合わせとによって、一つの文字で単語(時として文節)を表現できるのだ、と。
私は時折瞼を閉じ、天を仰ぎ、あるいは目を見開いて、うつむきながら、暗唱した。
その間ガイアは、目を細め、空を眺め、あるいは眼球を泳がせ、私の顔をのぞき込み、聞いていた。
「聞き流すと、意味が通っているようで、実は何の脈絡もない……」
同感である。
「恐らく俗謡の類でしょう。……そうでなければあるいは……」
「あるいは?」
「予言、占い、神託の断片である可能性も捨てられません。古代の、洗練されない宗教の覡(神官)が口述したものを、それなりの理由があって文字として残した……」
「碑文として残っており、また貴殿の家伝の品にもそれが彫り込まれているところからして、その説は有力ではある」
私はガイアの言葉に促されるように、再度古い指輪へ視線を移した。
祖母の遺品である。それはつまり、父が古代文字を研究する以前から、クミン家に存在していた物だということだ。……寝室の額縁の裏よりも安全な「秘密の隠し場所」として、父がそこの文字を刻みつけたという事象は考えづらい。
恐らく、かつては「それなりの理由」を持っていた文字列が、時経るごとに起源と理由を失い、呪いや護符の装飾として受け継がれてた、と私は考えた……のだが。
私は古びた金の表面の幽かな文字が震えるのを見た。己の目が原因かと、二,三度強い瞬きをしてみた。
ところが、目を開くたびに文字の震えは強くなる。やがて指輪そのものが激しく振動し始めた。
指輪は、それを押さえ込もうとする私の指先をはね除け、床に落ちた。震えながら病室の隅、私の手荷物がまとめ置かれている所まで床の上を滑り、止まった。
止まりはしたが、震えることはやめない。振動は益々大きくなり、ついには鼓膜を突き破りそうな鋭い金属製の高音を発っするに至った。
ガイアは残された左腕を自身の頭に巻き付け、何とか耳を塞ごうと足掻いている。
私はあわてて指輪に飛び付き、掌で覆い、床に押さえつけた。
勢いあまり、私は別途の脇に置いていた己の背嚢に体当たりを喰らわせる形となった。
倒れた背嚢の、甘く結わえられていた口が開き、荷物が溢れ出る。
大した荷物は入っていない。ガイアに付き添い泊まり込むために調達したその荷物と言えば、着替えと、数冊の書物と、僅かばかりの金子。
そして、赤い珠。
それは力学に則って、ぶつかった私から離れる方向に転がった。
途端、指輪の震えが一段と激しくなった。そればかりか、部屋の片隅に向かって転がっていた赤い珠までもが、直線的な動きを止め、小刻みに振動を始めたのである。
2つの物体が共振・共鳴し、空気の振動を超越した音波が私たちに襲いかかる。
思わず指輪から手を放し飛び退いた私は、ガイアに抱きつくと、彼女の右耳を自分の胸に押さえつけて塞ぎつつ、私自身の両耳を塞いだ。
競うように金切り声をあげていた二つの物体だったが、徐々に「優劣」が現れ始めた。
赤い珠が大きく揺れ、指輪は小さく揺れる。
赤い珠の大きな揺れは力つきる直前の独楽よろしく、あやふやで心許ない。
指輪の小さな揺れは羽虫の羽ばたきに似て、鋭く正確な振幅を続けている。
そうして2つの揺れは、私たちのちっぽけな常識では思いも寄らない現象を引き起こした。
赤い珠が、指輪に引き寄せられてゆく。
引き寄せられながら、圧縮されてゆく。
圧縮され、引き寄せられたそれが、指輪の元にたどり着いたとき、握り拳ほどであった珠は、小指の先ほどの粒になり果てていた。
それは、ちょうど指輪の縦爪にはまるほどの大きさだった。そして実際にその珠は指輪にぴったりと填り込んだ。
一体となった2つの物は、その瞬間からぴたりと震えるのを止めた。
不愉快な音が消え、水を打った静けさが重く広がった。
「一体、何が起きたのだ……?」
ガイアは素直な疑問を素直なままに口にした。
私はただ頭を振った。混乱する頭を、混乱の侭に。
ガイアにも私の混乱がすぐに判ったようだ。漠然過ぎた質問に筋道を立ててくれた。
「あの赤い珠は?」
「クォイティエ代官レイモンド・ノギア……。魔物に変じた後、命を失ったノギアが、最後に残した彼自身の痕跡……。恐らく【アーム】と総称される物体の一つ」
私は言いながら、脳の中で私が経験した事象を整頓していた。
「一つ?」
「そう呼ばれる物が複数存在すると思われますので」
経験の整頓から推察に転じた私の脳漿は、ある一つの推理にたどり着いた。
……太古から【アーム】なる物は存在していた。
……その危険性を、太古の者は知っていた。
……彼らは危険性を弱める方法を考え、ついに【アーム】を封印する呪文にたどり着いた。
……それを刻んだ呪符の影響下にある限り【アーム】の力は封じられ、小さな枠の中に押し込められる。
……そしてあるときその方法が実行され、呪文を刻んだ指輪型の呪符に、一つの【アーム】が封印された。
……赤珊瑚珠の指輪さながらの形に納められたそれをクミン家の祖先が手に入れ、子孫へ伝えられた。
……その子孫の果てが、それの危険性を知らぬ侭にそれを扱った。
私自身が導き出した結論に、私は全身が革ひもで締め付けられるかのような苦しみを感じていた。
ガイアを危険な目に遭わせ、傷付け、左腕を失わせた、その原因を作ったのは、この私ではないか!
愚かな私の無知の故に、彼女は命を脅かされたのだ!
「それは、違う」
ガイアが低く澄んだ声でつぶやいた。
「何が、違うと?」
私は険のある声音で尋ね返した。
自信があったのだ、己の推論に。己の愚かさに。それを彼女が否定したことが、癪に障った。
ガイアは静かに微笑んだ。そして私の問いには答えずに、さらなる疑問を投げかけた。
「あの珠が指輪から外れたのは、何故でしょう?」
「それは……。呪符の力が弱まって……」
「呪符の力が落ちていたとは考えられません。なにしろ、たった今それによって別の【アーム】が封印されたのですからね」
確かにそうだ。
私は張り子の虎の様に無様にうなずいた。
するとガイアは、圧倒的な理論展開を始めた。
「静止する物体は、外部から力を加えられぬ限り静止し続ける……と、力学の学者が言っていた。この法則を【アーム】に当てはめてはなりませんか?」
私は呆けた相づちを打つ。
「あの【アーム】は、件の呪文のよってこの指輪に止められていた。指輪から外れるためには、外から力が加えられねばならない。
……ここで言う力とは、力学的な意味での力ではない。【アーム】を止めている『力』が力学用語の『力』とは違うのように、それをはずす『力』も力学の『力』ではない。
件の呪文が持つ説明のしようがない力、それに対応しうる説明しようのない別の力が外部から加わったために、珠は外れた。
外れたことによって珠は元の力を取り戻し、その力を発揮できる身体を求めた。その場に、ちょうど良い按配に私がいた。
そして、その加えられた力の元は……恐らく私自身」
ガイアは一つ吐息を挟んで付け足した。
「私にはそんな『力』を発した自覚が、まるでないのだけれど」
長いことほどけなかった靴ひもがようやっとほどけたといった、清々しい表情で彼女は「己が原因」と断言した。
私は彼女の理論に依存を唱えなかった。
彼女にそんな「力」があったとしても、なんの不思議も感じられない。むしろ、そのような力にあふれた人物だと思える。
なんといっても、私自身が一番強くその力に影響されていることを感じているのだから。
-了-