レオン・クミン記《四》 


「振られてしまいましたよ」
 と、実にあっさりした笑顔で、フレキ皇弟殿下は仰った。
 当人達が全く乗り気でない政略結婚である。口にすることは決してできぬが、双方、何とかしてこれを破談にしたいと願っていたのだ。
「『わが夫は国家なり』だそうです。……良い言葉だ。誰の入れ知恵でしょうかね」
 楽しげな視線が、私に注がれている。
「さて……」
 私は……ガイアがひどく嫌っている……社交笑いを浮かべて
「私はただ、故事を暗唱しながら、女王に絹織物を献上しただけですから」




 六百年以上昔。
 まだジン帝国による統一がなされる以前、大陸には、村と呼んでもよいぐらいの小国が乱立していた。
 その一つに、お家騒動が起こった。
 王の嗣子に母親違いの妹を娶せるという、「血統を守るための結婚」が、遠因であった。
 母のみが血が同じということと、父の血のみが同じということに、何の違いがあるのか知れないが、異母兄妹(姉弟)の婚姻は認められ、異父兄妹(姉弟)のそれは禁忌とされている。
 現在でも、それは違法ではない。行う者がほとんどいないというだけである。
 ただし、実の……つまり、父も母も同じ……兄妹(姉弟)の結婚は太古より禁じられている。倫理としても、遺伝学の見知からも、当然のことである。
 さて。
 その国の妹姫には恋人が居た。姫と兄王子との縁談さえなければ、彼は伯爵くらいには成れたかも知れなかった。
 その男は婚儀の三日前の深夜に、嗣子を殺してしまった。
 愛か、欲か。理由は定かでない。なぜならことを成し遂げた直後、彼は衛兵に膾(なます)にされてしまったのだから。
 空位となった王太子位を、嗣子と同腹の弟と争ったのは、嗣子の妻となるはずだった異腹の妹であった。
 無為な闘争を避けようと、同腹の弟は妹(彼にとってはほんの二日違いなのだが)に、自分との結婚を提案した。
 そのとき彼女が言ったのが、先の台詞である。
 結局、王位は妹が継ぎ、弟は摂政となった。女王は生涯結婚することなく、死後、御位は弟の子が継いだ。



「まあ、貴君はそのためにユミルに来たのだろうから」
 この場合の「そのため」が、私の言葉のどこにかかるのかが、微妙で重要な点である。
 フレキ殿下は、清々しい笑顔を作られた。
 ……すべてを知っている、予も感謝している……
 そのような殿下の声が、聞こえてきそうな笑みであった。
 
 ヨルムンガンド・フレキ=ギュネイ公爵一行がユミルに到着したのは、私に遅れることわずか3時間だった。
 私はギネビア女王の「声なき依頼」を遂行することに、ぎりぎり間に合ったということになる。
 
 ユミルは小さな島国であるから、国賓が泊まる宿も、小さく狭い。
 世が世なら皇帝であられた皇弟フレキ殿下と、世が世なら僻地の小役人に過ぎない私とが、ラウンジで差し向かいにお茶を飲める光栄は、他の国では味わえまい。……いや、わがミッドでもあり得るか……。
 そう。
 私と同じ卓で私と同じ「一番安いお茶」を注文したフレキ殿下は、数年前まで先帝の第二皇子であられた方なのである。
 上等だが時代遅れの衣装を美しく着こなし、長めの髪をうなじで結いまとめた、古風で上品な元皇子は、正に運に見放された人物であった。
 第一皇子フェンリル=ギュネイとは同い年であり、且つ、皇帝たる資質は……政治手腕が、というよりは、カリスマ性が……兄以上と目されていたので、一時期は太子に立てられるのではないかとさそさやかれていた。
 しかし、それは成らなかった。
 皇帝の死が唐突に過ぎ、遺言が残されていなかったというのも、理由ではある。
 父の妾姫ゲルトルートが産んだフェンリルが、たとえ半月ばかりの違いとはいえど紛れもなく第一皇子であったということも、また理由である。
 だが。本当の、深いところにある理由は、外部の者には知れない。
 おそらく、年長の順列であるとか、才能の優劣であるとか、そういった正論を越えたところで、天下は転がったのだろう。
 ともかく二代皇帝の即位には、百姓(ひゃくせい)万民、何かしら策略めいたモノを感じていた。
 
 フレキ殿下は、私と八つほどしか違わないはずだが、ずいぶん老成して見える。
 顔立ちは彫り深く、目元に知的な輝きがあり、口元にお優し気な笑みがある。
 その穏やかな容貌は、父皇帝よりも、生母であり先帝の正妃であったファンティーヌ妃のそれに強く影響されているという評判であった。
 ともかく、帝位に就けなかった殿下は、幽閉に近い転封により、北の国「ガップ」の統治者となった。
 我が祖国ミッドのおおよそ半分の国土に、やはり我が国の四分の一の領民が住む、芥子粒のような国である。
 寒さが厳しい上に土地が痩せており、農産物の自給は望めないという。
 海に面してはいるが、海岸線が険しく、港を作ることすらかなわない。
 貧しい国である。
 皇弟は、男女併せて十余名の従者と、二十名に満たない衛兵とに傅(かしず)かれ、自ら菜園を耕す日々を送っておられる。
 その数少ない家臣の中には、兄皇帝の命を受けた監視役が混じっている。
 やましいことなど何もなくとも、見張られるということは、心苦しい。
 殿下はさぞ心穏やかからぬ日々を送られているのであろう。旅の空にある今、じつに晴れ晴れとした御顔をしておられる。
 この旅に連れてきた供は、厳選されたたった2名である。
 その、隆とした剣士と凛とした侍女は、忠実な家臣である以上に、信頼の置ける友であるようだ。
義兄陛下あにうえは、ご息災ですか?」
 穏やかで静かな声で、皇弟殿下は訊ねる。
 大公妃・クリームヒルデ妃は、今上皇帝の異父姉である。
 血縁が非常にややこしいのだが、今上帝と異母兄弟であるフレキ殿下とは、「他人」であった。
 それでも、殿下は姉と慕っておられる。
 そして、姉の夫である我が主君をも、兄事してやまない。
「我が君には心身とも健勝にございますれば」
 返事は、なかった。小さく、満足そうにうなづかれただけである。
 皇弟殿下が
「ミヒェル、ガービ」
 と小声で呼ばわると、二人の従者がすっと両脇に付いた。二人が殿下に頭を垂れ、また私たちに礼をするのを合図とするかのごとく、殿下も立ち上がられた。
 殿下は背が高いゆえ、がっしりとした骨太であるにもかかわらず、細身に見える。
「ご出立には、時間が遅うございませんか?」
 日が暮れかかっている。
 出口に向かう後ろ姿に問うと、殿下は振り向き、
「フェアカゥフ行きの最終便まで、あと半時……ゆえ」
 笑顔は崩されなかったが、しかし寂しそうにこう言われた。
義兄陛下あにうえに……おそらく、もう二度とご尊顔を拝することはできますまいから……愚弟が北の果てからご息災を祈っておると、お伝え願いたい」
 
 後味が悪い。
 婚姻によって儘ならぬ国をつなぎ止めようという策を、ギュネイ帝室は好んで使う。
 我が主君の結婚もそうであるし、先年は豪商の孫で九歳になる男子に、二十歳を越えた異母妹を嫁がせもした。
 それによって嫁ぎ先を手中に押さえ込めるのならば、それは……道義はどうあれ……政策として正しいだろう。
 だが、かつては政敵でさえあった弟(ご本人にその意思はなかったと思われるが、少なくとも、今上陛下の家臣と皇弟殿下の旗本とは、かつて仲違いしていた)と、造反する力のある属国の女王とを一つに併せて、何の得があるのか?
 顔を伏せた。飲みかけのお茶はカップの底で冷え切り、陰鬱な光を反射している。
 私はつたない脳漿をフル回転させ、陰湿だが効果的な、そして当て推量にすぎない策略を思いついた。
「本人達に叛意はないが、周りから見ると離反するように見えてしまう者達をわざわざ一所に集める。
 そして、反乱軍の旗揚げのために財力と兵力を集めているという風聞を市井に流す。
 判官贔屓が好きな市民は、大喜びで『零落した真の皇帝が、ついに圧政を引く偽帝を討つ』などと、尾ひれを付けた噂を広げる。
 噂に信じ込む……フリをして、国家反逆の冤訴をでっち上げ、勅令を発する。
 首謀者としてフレキ殿下とギネビア女王を含む、幾人か処刑……いや、フェンリル帝のことゆえ、一罰必戒であろう。
 一国を完膚無きまでに叩き、三族殲滅させて、他国を戦慄させるがやはり得策か。
 ともかく、一度の行動で、危険な政敵を滅ぼし、富を産む国を手中にできる」
 声に出すつもりはなかった。
 しかし無意識が、私の唇を動かしていた。
 傍らにいた秘書官のロベールが、
「閣下」
 と、一言発した。
 ここは、交易盛んなユミルの、各国要人や商人の集まりうる場所である。
 この、長い独り言は、不用意を極めていた。
 この日ほど私は、自身が部下に恵まれていることを実感したことはない。
 不相応な高位を与えられ若輩者に、主君は経験深い者達を補佐官として配してくださった。
 ロベールも、四十を過ぎた中年である。二十歳も年下の私を、良く助けてくれる。
 無駄口をたたくことがなく、適切な発言を多くする。
「うむ」
 私は顔を上げ、笑顔を作った。
「明日、女王の晩餐会に、招待されていたましたが……」
 普段と変わらない声音で、私はロベールに確認した。
 ロベールは、頭からすっぽりと白い「雲」に包まれている。
 私の表情は変わらない。私にとっては見慣れた光景なのだから。
 彼は、白い濃霧の向こうで、私の考えを代弁してくれた。
「やはり、お辞めになりますね?」
「モーニングは用意してきたのですが、イブニングは忘れましたからね」
 最初から、夜会服など用意していない。
 そう。私は笑んでいた。
 ありきたりの、ふつうの笑顔を浮かべていた。
 対峙する者の頭上に「雲」が浮かんでいるのを見てしまったときの贋物の微笑を、いつも通りに作っていた。
 たとえそれが、友であっても、親族であっても、私は心の奥の動揺と悲しみを顔に出さない。
 幼い頃からの「訓練」によって、驚きを面に出すことができなくなっている。
 だから誰も気づかない。
 私が、その者の死期を悟ってしまったことを。

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