レオン・クミン記《五》

 翌朝、私は出立を前に今一度ギネビア女王に謁見した。
「皇弟殿下といい、貴公といい、用が済んだ後に遊行しようという気がないのですね」
 ギネビア女王が笑われるので、
「貧乏暇なし、でございますれば」
 答えて一礼した。
「お国で良きひとが待っておられるのでしょう? 憎らしいこと」
 女王の悪意のない嘲笑は、実に晴れやかだった。
 私は、凍った笑みを浮かべていた。
 衛兵の多くが、白い“雲”を負っていた。
 ギネビア女王は、幸い……あるいは不幸……なことに、“雲”を頂いておられない。
 いや、城中の者ばかりではない。登城の道すがら見かけた人々の大半が、“雲”の中にいた。
 この国に、何か凶事が起こるのだろう。
 だが、それを眼前の国家元首に伝えられるだろうか?
『多くの臣民が、近日中に命を落とします』
 そう進言したとして、その理由を問われたとして……ガイアが認めてくれたように、ギネビア女王が理解してくださるはずがない。
 いや、万一理解が得られたとして、何をどうすればよいのかは私にも判らないのだ。
 私は何も言えなかった。
 何も言えぬまま謁見室を出、何も語らぬまま城をあとにした。
 
 必要なこと以外はしゃべらないという私の「特徴」ゆえ、従者達は私が黙することを不審がらなかった。
 彼らは私にしか見えない“雲”の中で、故国に帰れることを素直に喜んでいる。
 私は、喜べなかった。『この場の全員が死ぬ』ことが「見えて」しまっているのだ。
 私が今抱いている冷たい感情は、聖職者がいう「悟り」などという崇高なものでは、おそらく無いであろう。
 学者の言う「学習された無力感」というものに違いない。
 私に、死を食い止める術がないことは、解っている。
 泣いても騒いでも無駄なのだから。
 
 港に着き、昼前に出航する定期便を待つ時間つぶしに入った付属の喫茶房で、私は飾ってあった鏡を見た。
 映る虚像が、白く霞んでいる。
『私も、か』
 驚くほど冷静に、私は直感した。同時に、
『ガイアの頭上に“雲”を見たなら、私はこれほど冷静でいられないだろう』
 とも。
 それはさておき。
 大陸とユミル本島とを往復する船が、ようやく港に入った。
 多くの降客と乗客で、港はごった返している。
「お疲れですか?」
 ロベールが私の顔をのぞき込んだ。
「そう、見えるますか?」
「お顔の色が、お悪うございますよ」
「元から、そうでしょう?」
 私は必死で笑った。
 実は、少々吐き気がしていた。
 芋洗いに込み合う人の群が、みな白や黒の“雲”を引きずって歩いている。
『ここにいる全員が死ぬ』
 かつて見たことのない数の「死神」に、さすがに圧倒されてしまった。
『火山かと思っていたのだが。それにしては山手を離れた海岸線の者の方が、“雲”に憑かれている確率が高いのは、妙だ』
 腕組みし、見返る。
 ユミル本島の中央部にそびえる活火山が、一筋の噴煙を上げていた。
『やはり違う』
 直感めいたものが、私の脳裏に浮かんだ。
『自然災害ではない。もっと禍々しい「死」が近付いている』
 顔を、港の側に戻した。
 海は見えなかった。変わりに人の顔があった。
「ミッド公国の使節の方とお見受けするが」
 その顔は、生臭い息を私の鼻に吐きかけた。
 この人物は、それほど近い位置に立っていたのだ。
 私はこの人物を知らない。
 しかし、彼の隣に、意外ではあるが、見覚えのある顔があった。
 何故意外か。
 その人物レイモンド・ノギアは、ユミル女王国の対岸、大陸側にある直轄地クォイティエの豪商で、代官を任ぜられている。
 代官が任されている領地から出ることは、ほとんどない。
 何故見覚えがあるか。
 それはクォイティエを通らねば大陸東南部へ旅することができず、クォイティエを抜けるためには代官の許可が必要とされているからだ。
 口臭のする男は背が高く、一見兵士風の姿をしていた。
 ひげも眉も髪も、湯煎に失敗して焦げたチョコレートのような色をしている。
 レイモンド・ノギアは、矮躯だった。
 丸々としたワイン樽のように太っていて、役人にはとうてい見えない派手な衣装をまとっていた。
 ノギアとその連れも、“雲”を負っていた。
 赤黒い“雲”である。
 静脈を流れていた血液が、何かの拍子に体の外へ出て、酸化を始めたような、どす黒い赤である。
 初めて見る色合いであるが、紛れもなく“雲”であり、死の象徴だった。
「勅命なり」
 ノギアはボールのような顔で私を見上げた。
「ギュネイ皇帝の、ですか?」
「【皇帝】のです」
 太った兼業代官は、復唱するように答えると、にたりと笑った。
「拝聴しましょう」
 そう答えざるを得ない。陪臣ではあるが、私もいわばギュネイ皇帝の家臣である。
「ミッドの国に、死を賜る」
 言った直後であった。
 ノギアの体が大きくふくらんだ。
 比喩ではない。本当に巨大に膨張したのだ。
 ふくらんだ体のあちこちが裂け、そこからどす黒い液体が噴き出した。
「閣下!」
 私の体を、ロベールが突いた。
 軽い体は吹き飛ばされ、私のいた場所に代わって立つこととなったロベールに、その黒い液体が降りかかった。
 液からは、三百年かけて腐らせた葡萄酒のような、すえた臭いがした。
 ロベールは
「ギャ」
 悲鳴を上げると、床に倒れ込み、のたうち回った。
 皮膚が、そして肉や内臓が、煙を上げて溶けてゆく。
 苦しみは、短かった。
 信頼すべき優秀な男は、あっという間に骨になっていた。
 悲鳴は、その場にいたミッド使節とは無関係の人々の口からも発せられた。
 飛び散った液体を浴びた者は皆足掻きながら溶解し、人の形を失った。
 一難から逃れた人々が、出口に殺到した。
 その群に、もう一人の男が錆びた巨大な鎌を振り下ろした。
 先ほどまであの男は、そのような物を持ってはいなかったはずだ。
 目を凝らして見る。すると、その鎌の刃が、彼の両腕から直接生えているのが見て取れた。
 何が起きたのか、理解できなかった。
 理解できぬまま、私は床を転がった。
 ノギアは膨張した体から、強酸と思われる液体を吹き出し続けているし、兵士風の男も、無闇に鎌の付いた腕を振り回している。
「よりにもよって、こんな死に方か」
 本音というものは、弱気なときほど口をついて出るものだ。
 理解のできない現象、理解のできない物体によって、理解のできない最期を迎えるのは、理不尽というものだ。
 たしかに、死という結果は、例えどこでどのように迎えようとも同じであろうが、やはりそこへ向かうプロセスが重要ではないか。
 ふ、とガイアの顔が浮かんだ。
『あなたの背中が、力強いので』
 出立の時の彼女の声が聞こえた気がした。
 この瞬間、私は
『死ぬなら、ガイアに看取られたい』
 と、痛切に思った。
 直後。
 私はすぐさま理解しがたい現実に引き戻された。
《往生際の悪い小僧め》
 腐ったワイン樽が口をきいた。
 数分前までノギアだった物体は、最初よりも大きくなっている。
 足下から管状の物が伸び、それが強酸を浴びて溶けた遺骸に絡まっていた。
 この物体は、生き物に酸を浴びせてタンパク質を溶解させ、養分として吸収しているのだ。
 混雑していた港にいた人々の、おおよそ半分が、その物体にのタンパク質を吸収されたようだ。
 それによって、レイモンド・ノギアだった物の身体は、自重により歩行することが困難になるほど肥大していた。
 私に対して酸を吹きかけようとしているのだが、そのためにその場から動こうとすることはしない。
 私はウツボカズラやハエトリソウの類を思い浮かべた。
《オルロイ、あの餓鬼を引きずり出せ! 【皇帝】の命は、ミッドの殲滅せんめつだ》
 私が物陰……待合所の柱だったか、あるいは破損した壁であったか、思い出せない……に隠れているが故、自身の酸や養分を吸う管が届かないことに、ノギアはいらだっているようだった。
 私もいらだっていた。
 死は、どうやら避けられそうにない。自身の「能力」によって、それを悟ってもいる。
 しかし、その原因が正体不明なものだということが、気に入らなかった。
 大体、ノギアの言う「【皇帝】」とは何者か? ギュネイのそれか、あるいはあの化け物達が、自身を統べるモノをそう呼んでいるだけなのか?
 どちらであるにせよ、何故その「【皇帝】」がわがミッドを滅ぼさんとしているのか?
 そして。
 本国は今どうなっているのか?
 ミッドにもこの様な輩が現れ、この様な殺戮さつりくを行っているのか?
 判らないことだらけだ。何もかも。
 私は理由や原因を考えようとした。
 思えば悪い癖だ。理解できないことを理解しようと努めること自体は、紛れもなく良いことなのだが、私は所構わず思考を開始してしまう。
 その時も私の癖は、それを気付かせなかった。
 ノギアが「オルロイ」と呼んだその蟷螂カマキリのようなモノが、私の真向かいに立っていること。そしてソレの鎌が私の右肩口へ振り下ろされたことも。
 
 痛みが、全身を貫いた。
 光が一瞬で失せ、私は闇のただ中に放り込まれた。
 やがて、景色が脳裏に浮かんだ。
 絶望的なその光景は、しかし現実の物ではなかった。
 

 どこかの医療施設。
 設備はお世辞にも整っていると言い難い。
 にもかかわらず、患者が次々と運ばれて来る。
 死病が蔓延しているのだ。
 看護婦のみならず、立って歩ける者総てが「私」の指示通りに動いてくれている。
 だが、患者は皆死んでゆく。
 治療薬の絶対数が不足している。その少ない薬を投与しても気休め程度にしか効かぬ。
 どんなに尽力しても、及ばない。
 「私」も罹患している。目が霞み、意識はもうろうとしていた。
 やがて、一人の看護婦が倒れた。
 誰よりも良く働いていた者だ。
 誰よりも大切な女性ひとだ。
 「私」は叫んだ。
『死なせない! 私はお前を死なせたくない!』
 目の前が赤く染まった。

「ガイア!」
 現実の私が叫んだ。
 切り裂かれたらしい肩口に、痛みはない。
 オルロイは毛の生えたトカゲのような顔を、驚愕で満たしていた。
 やがてソレは私から目をそらし、
《吸えない!》
 と叫んだ。視線の先にはノギアがいるようだ。
《なんだと!?》
 ノギアの声が応える。
 ソレが「吸う」のは、おそらく人の命だと思われる。
 奴らは人の命を大量に消費して「生きて」いるらしい。そうせねば「生きて」いられないのだろう。
 オルロイの驚愕は、悲鳴に変わった。
《吸われる!》
 私は、刃の先から強烈な「悲しみ」が体の中に流れ込んでくるのを感じていた。
 オルロイの腕はいつの間にか鎌の形状を失っていた。
 人間のそれに戻っている。それも、朽ち木の枝のように細い腕だ。
 私はその痩せた腕を掴んだ。
 自慢できるほど腕力のない私の微々たる握力に、そやつの腕は粉々に潰れ、折れた。
 まるで、賞味期限の切れたクロワッサンを握りつぶしたような感触だった。
 私は己の右肩口を見た。
 斬られた痕はない。衣服も裂けていない。
 だが確かな変化があった。
 肩が光っている。赤い光を発している。
 その光が叫んでいる。
『死なせたくない! 死なせたくない!』
「私も……私も死なせたくない」
 一瞬の闇に見た幻。その中で命を落とした女性の苦しげな顔と、故国で待っているはずのガイアの顔とが重なって見えた。
《盗られた! アームを盗られた!》
 わめきながら、オルロイは両膝を落とした。
 途端、彼の体は軽い破壊音を発しつつ、バラバラに砕けた。
「アーム?」
 オルロイの最期の言葉を、私はかつて聞いたことがあった。
 この世に未練を残して死した者のむくろが、一個の赤い石に転じたという昔話。
 そして、思い出した。
 その赤い石が、不思議な力を秘めた武器になるというおとぎ話を。
 私は私の中で叫んでいる無念の魂に呼びかけた。
「古の仁者よ、私と共に人を救い給え」
 肩の光が、いっそう強くなった。血液が沸騰したのではないかと思うほど体は熱く燃え、力がみなぎるのを感じる。
 そして「彼」の名が、私の脳裏に浮かんだ。
【死】ザ・デス!!」
 光が長い竿状に伸びた。私が掴むと、その先がほぼ直角に折れた。
 麦を刈る巨大な鎌、絵本に描かれる死神の鎌そのものの形状だ。ただし、鮮血のように赤い。
 私は物陰から出た。
 腐ったワイン樽が、たるんだ皮膚を震わせている。敵の出現などはまるで想定していなかったのだろう。
《オーガからアームを奪って……ハンターになっただと?》
「オーガ……。そうか、それが貴君らの総称なのですね」
 不可解が一つ消えた。
「とすると、ハンターというのは、貴君らを倒す者のことですか」
 私は、私自身が驚くほど冷静になっていた。
 逆にノギアは激しく狼狽していた。
「貴君が言う【皇帝】は、貴君らの統治者のことなのですね?」
 答えはない。
「何故、貴君らの【皇帝】は、ミッドを殲滅せよ、と?」
 土気色の首が、横に振られた。
《知らん。ただ命令されただけだ。ワシは知らん》
「その命を受けたのは、貴君らだけではない……ともがらが、本国に赴いている?」
 今度は首を縦に振る。
「そして貴君と同じように、手当たり次第に人の命を奪っているのですね?」
《ニンゲンとて、牛や豚を屠殺して喰うではないか》
 ノギアは相変わらず震えているが、どうやら嘲笑する元気だけは取り戻したようだ。
「だが、野生の猪は牙を持ち、野牛は角を持っています。彼らは生きるために戦い、生きるために抵抗する」
 私は赤い鎌の柄を強く握りしめた。ゆっくりと、ノギアに近付く。
 ノギアは明らかに動揺していた。
 虚勢ともとれる大声で、
《人間は死ぬ。だがワシらは死なぬ。人間を喰って、生き続ける》
 吼えると、体を大きくふくらませた。
 全身から強酸が吐き出た。
 周囲には、まだ数名生き残っている者がいたが、標的は私一人に絞られている。
 私は手にした鎌を前に突き出した。
 考えて取った行動ではない。
 歩くときには両足が自然に出るが、それは一々「右足を出して大地を踏んだら、左足を蹴って前に出し、それが大地を踏んだら、今度は右足を出して」などと考えながらやるものではないだろう。
 それと同じだった。避けようと思ったら、そうすることが当然のように、体が動いた。
 強酸は鎌に触れるや否や、白煙を上げて蒸発した。
 私には、ほんの一滴も降りかからなかった。
 ノギアは驚き、また恐怖したようだ。
「死は総ての生き物に訪れる。逃れることはけしてできない。当然、私もやがて死ぬでしょう」
 私が言うと、ノギアはでっぷりとした体を揺すって、必死に後ずさろうとした。
 ところが、肥大した体は一寸も動かない。
「私はつい小半時前まで、死を待っていました。仕方のないことだと、あきらめていました。……ですが、今後は直前まで戦って、間際まで抵抗することにします」
 私は鎌を振り上げた。
「死は万民に平等。いわんや、オーガをや」
 振り下ろした鎌の刃に、私は、チーズを切ったほどの抵抗力も感じなかった。
 

 港で何か変事が起きたという知らせを受けて、武装した師団が到着した時には、全てが終わっていた。
 かろうじて難を逃れた人々が、衛生兵に促されて医者の元へ進む。
 相変わらず“雲”を負っている者もいるが、大半の頭上からそれは消えていた。
 そして、今朝方私が城中で出会った“雲”を頂いた兵士も何人か出張って来ていたが、彼らの内で今もって“雲”に取り憑かれている者は一人としていなかった。
 私は師団長に見たことありのまま話した。
 惨状はその場にあるのだが、師団長は
「それでも信じられないし、復命のしようがない」
 と、私自身がギネビア女王に報告して欲しいと言った。
 私は断った。
 母国のことが、主君のことが、そして何よりガイアのことが案じられた。
「足の速い船を一艘、お貸し願いたい」
 無理矢理頼み込み、小さな漁船を借り受けた。
 故国を出るとき3名だった従者は、馬丁ただ1人になっていた。
 しかし彼も重傷を負っていたので、ユミルに残すことにした。
 
 私はただ一人、老練な漁師とその子弟が操る船に乗り込んだ。
 ほんのわずかな手荷物と、一つの珠を手中に握って。
 レイモンド・ノギアを人外の物に変貌させた原因の一つであるそれが、「【節制】テンペランス」という銘のアームであるということを私が知ったのは、随分と後になってからのことだった。

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