レオン・クミン記《六》

 私は、ある意味で遅すぎ、別の意味では間に合った。
 
 たどり着く直前に、故国ミッドは壊滅していた。火山の噴火により……と、救助活動を行った隣邑の役人は言った。
 実際、硫黄の臭いと噴煙の霞とが大地を覆っている。
 同時に灰色の「雲」と胸が悪くなる「気配」も、空に充満していた。
 国民は亡骸で見つかるか亡骸さえ見つからないかのどちらかで、生き延びた者を数えるには十指で事足りた。
 その指の中に、彼女はいた。
 医者は複雑な顔で言う。
「生きておられます」
 医者の言葉を訊いた瞬間、私は喜んだ。大公一家が行方不明であることを一瞬だが失念し、驚喜した。
 だが。
「前のめりに瓦礫の中に倒れ込んだのが……幸いと申しましょうか、あるいは不幸と申しましょうか。噴火の熱波が背中の上を通過した様子で……」
 医者ははっきりしない口調で彼女の様態を説明しようとしていた。
 当たり障りのない言葉を選ぼうとする彼の発言など、私のは不要だった。
 粗末なベッドの硬そうなマットにうつ伏せで寝かされている彼女の姿を見れば、彼女がどのような傷を負っているのか見当が付く。
 小さな個室にぽつんと置かれたベッドの中で、ガイア・ファテッドは昏々と眠っていた。
 そして大柄な彼女の総身は、真っ赤な「雲」に包まれていた。
 前のめりに倒れていたという彼女の身体は、確かに裏側……ふくらはぎからつむじまで……の皮膚だけを、ムスペル火山が吐き出した熱波に融かされていた。
 長く艶やかだった黒髪はすっかり燃え尽き、わずかに前髪だけが、申し訳なさそうに額を隠している。
 顔に怪我はなかった。しかし頬はやつれ果て、落ちくぼんだ眼球を覆う瞼は黒く鬱血していていた。
 そして右の肩に、きつく巻かれた巨大な葉巻煙草のような腕がすげられていた。
「腕は……恐らく火山弾か何かが当たったか、瓦礫に挟まれたかしたのでしょう。剣を握ったまま押し潰されていました。何とか切断はせずに済みましたが、元通り動くようになるかは……」
「剣を握っていたのですか?」
 聞き返すと、医者は小刻みに数回うなずいた。
 彼女は常に帯刀している。普段は正装の一部として腰にサーベルを。武装する……闘技会であるとか、閲兵式であるとか、あるいは警備が必要な時……場合はもう一振り、背丈ほどもある幅広の両刃剣を背に負う。
「剣とは、サーベルですか?」
「いや、丸太のような長剣です。実を言いますと、それで身元が判ったのでして。つまり、ファデッド卿の剛腕は、近郷に広く知れておりまして……」
 噴火のその日、何らかの理由でガイアは武装していた。そして、何事もなければ背に負っているはずの長剣を、押し潰された右腕が掴んでいた。
「抜き身でしたか?」 
 一応の確認をしてみた。医者の答えは予測できた。
「ええ……そうです」
「剣は、どこにありますか? ……あれは彼女の、剣士の『魂』ですから、傍らに置いてやりたいのです」
「そう言うことでしたらすぐにお持ちしますよ」
 医者は疲れた笑顔を浮かべると、部屋を出た。
 私は、ベッドの端にそっと腰掛けた。かすかな揺れが、彼女の瞼をわずかに開かせた。
「おはよう」
 私は、自身が平静で自然な声を出したことに少々驚いた。
 目覚め、私の顔を確認した彼女の第一声は、
「私は私でなくなってしまった」
 である。
 瞬間、返答にあぐねた。息を一つ呑む内に何とか絞り出した答えは、
「私には私のガイア以外の何者でもなく見受けられますが」
 で、あった。
 嘘を吐いたつもりは毛頭ない。彼女は紛れもなく彼女であった。
 怪我を負っていても、やつれ果てていても、不吉な雲に覆われていても、目の前に横たわるのは、私の大切なガイアそのものなのだから。
 だがガイアは、核心を突いた。
「そう『見える』だけでしょう」
 苦しい息を吐き終わると、静かに瞼を閉じた。青白い頬を涙が一筋流れ落ちた。
 
 ガイアが喘ぎながらも私に語ってくれた「ミッドに起きた悲劇」を要約すると、この様になる。
 宴席に現れた監国謁者かんこくえつじゃ(目付役)のルカ・アスクが、突如得体の知れない物体に変じたこと。
 彼……あるいは《それ》と呼んだ方が適切かも知れない……は両の手で「鎖につながれた獅子」に見えるモノを操り、破壊と殺戮を行ったこと。
 その「獅子」に噛み付かれた者は精を吸い尽くされて死に、亡骸は出汁を取った後の鶏ガラさながらにやせ細っているということ。
 命を失い、倒れ、動かなくなったそれらの亡骸が、しばらくすると起きあがり、《それ》の望むこと……殺戮と破壊……を行うこと。
 クレール姫と控え室にあるとき混乱が起こり、従って大公殿下ならびに妃殿下とははぐれてしまったこと。
 姫をかばいながらルカ・アスクだったモノに攻撃を加えたが、返り討ちに遭ったこと。
 繰り出された「獅子」が
「私を襲い、右腕を喰い千切った」
 こと。
 痛みと出血のため、不覚にも気を失ってしまったこと。
 しばらく後に起きた激しい地震に揺り起こされ意識を取り戻したが、直後吹き付けた熱波によって、再び気を失ってしまったこと。
 気が付くとこの病院に居た。そして「国土は火山によって壊滅した」「国民の大半が死亡した」「大公一家の亡骸は見付かっていない」と聞かされた……。
 
「人でなくなったというのは、ルカ・アスクに喰い付かれて、人喰鬼グールにされた、という意味ですか?」
「それは違う。ヤツの奴隷になるのは、押さえられた」
 枕に埋めた口から、くぐもった、しかし奇妙に楽しげな声が出された。
 沈んでいて、且つ明るいガイアの言葉は、先に彼女自身が語ってくれた、「《それ》の犠牲になった者は、すべからく《それ》に隷属する魔物になる」という事実に反しているではないか。
「どうしてですか?」
 言いながら「言葉に不信感が現れている」と感じた。そして当然ガイアもそれを感じ取っていると、この時は思ったのだが、後で彼女に……恐る恐る……聞いてみたところ、
「あの場合あのように反応するのは至極当然のことであるから、気にならなかった」
 という答えが、笑顔と共に返ってきた。
 兎も角。
 彼女は顔を伏せたまま、右腕に巻き付けられた麻布をほどいた。
「貴男にも、火傷に見えますか?」
 腕は痩せ細っていた。骨に皮が張り付いたような指先から二の腕までが、赤く爛れている。見覚えのあるこの「醜さ」が、私の目に火傷と映ることはなかった。(大体、これを「火傷」と断じた医者は、言っては悪いが藪以下であろう)
 そう。
 私はつい最近、遠く離れた島国の港で、その爛れ同様に「醜い」皮膚を持ったモノと出会い、闘った。
 私が答えずにいると、ガイアはそっと顔を上げた。泣き腫らしたらしい赤い瞳が、私の顔を見て驚愕していた。
 私は、恐らく笑っていたのだと思う。落ち着き払っていたことは憶えているのだが、表情までは記憶していない。
「《それ》は、貴女に何と言っていますか?」
 そのび爛した腕に私が手を置きながら訊ねると、彼女の瞳の驚愕の色はますます濃くなった。
「《それ》が、私に語りかけているのが……判ると!?」
 爆ぜるように身を起こし、そのため襲った激しい痛みに顔を歪めながら、しかし彼女は不安と驚喜の入り交じった眼差しを私に向けた。
「《それ》が私の知っているあるものと同一であるなら、対処の方法も……」
「……対処」
 つぶやくように反復すると、ガイアの顔から驚喜が消えた。代わりに浮かんだのが、不安と安堵の交錯した微笑みである。
「貴男が来る直前、《それ》が面白いことを言ったのですよ」
「何と、です?」
「『殺される』」
「ほう」
「驚かないのですね」
「予想通りですから」
 私が笑うと、ガイアは不安混じりの笑みを大きくして応える。
「《それ》は、貴男のことを【死】ザ・デスと罵っている」
「自分は何であると言っていますか?」
【力】ストレングス……誰よりも強い力だ、と」
「誰よりも、ね」
「『身体をくれれば、復讐のための力を提供する』とも」
「で、貴女は何と言って断っているですか?」
「復讐という言葉は嫌いだ、と」
「貴女らしい理屈だ」
「それに、どうやら《それ》自体が私の身体を用いて復讐を成したいだけのようなので。……私は他人に利用されるのも嫌いであるから」
「何故、《それ》の思惑が判るのですか?」
 私はガイアの右手を撫でさすった。すると、皮膚の下で何かが痙攣した。《それ》はよほど私のことが気に入らないらしい。
 ガイアは一呼吸吐いた後、思案しながら
「幻覚を見せられた。自分がいかに酷い目にあったのかを見せつけ、その瞬間を私に体感させてくれましたよ」
 と、すがりつくような視線で私を見つめた。
 どのような幻覚なのか具体的なことを言ってくれないのは、その光景がよほど凄惨で、思い起こしたくもないものだからであろう。
 私はあえて幻覚の内容を聞かず、訊ねた。
「同情を強要するわけですね?」
 彼女がうなずいて同意すると、彼女の右腕は激しく震える。そして、音でない声が、耳ではなく頭の中で聞こえた。
『強要? アタクシはただ理解して欲しいだけよ』
 ガイアの右手の甲に血管が浮き出、大きく脈打った。ただ血液が流れているだけとは、とても思えない。
 彼女は眉を顰め唇を噛んだ。右腕が激しく出鱈目に動いている。左腕で爪が食い込むほどに強く押さえ込んでいるというのに、赤い表皮に覆われた《それ》は、暴れることを止めようとしない。
 やがて左腕をはね除けた右腕は、真っ直ぐに私に向かって伸びてきた。……比喩表現ではない。本当に、右腕が伸びたのだ。
 掌が大きく開かれた。指関節が総てあらぬ方向に曲がっている。《それ》は関節という肉体の機能を完全に無視しているのだ。骨も腱も筋肉も、皮膚という袋の中に詰め込まれた挽肉の役割しか果たしていない。
 太いが肉の足りない腐った腸詰めは、私の首筋に的確にからまりつくと、さらに伸びて、私の身体を向かいの壁に叩き付けた。
 頭の後ろで、漆喰の割れる軽い音がした。
 足の裏は地面の感覚を捕らえられない。
「確かに【力】と名乗るだけのことはあるようですね」
 私はなんとか首まわりに空間を確保し、ようやくかすれた声を出した。
『アタクシの道を阻むことは許しません』
 生暖かい肉の紐が言う。
「まるで威厳ある者のように語るのですね……死霊の分際で」
 私は笑っていた。【力】を自称する《それ》が自信に満ちていることが、可笑しくてたまらなかった。
 この私の態度が、《それ》の逆鱗に触れたらしい。
『死……霊……? アタクシが、死霊!?』
 《それ》は小刻みに震えると、
『無礼を言うことは許しません!』
 私の首を締め上げた。
 気道が狭まった。喘ぎながら、私はガイアを見つめた。
 彼女は、恐怖していた。
 己の腕……だったもの……が、私を傷付け、苦しめている事実に、恐れ戦いていた。
「事実……ですよ。いや、死肉と言った方が……よいかも……知れませんが」
 私は(恐らく、呼吸困難により青黒く変色した顔で)精一杯の笑顔を作った。
「死肉」
 ガイアの小さなつぶやきが、私の鼓膜を力強く震わせた。それと同時に《それ》の大きな怒声が、私の脳髄を激しく揺すった。
『死肉!?』 
 肉の縄はいっそう強く私の首を締め上げた。
 《それ》には、私の《それ》に対する見解を訂正させる気がないようだ。
 そのような面倒な真似は好まない。否定する者、考えに会わない事象は、総て切り捨てる……それが流儀らしい。
「……生きて……いない肉体……は……死肉……で……しょう……」
 息が詰まった。語尾を発声できた確信はない。しかし、言わんとした事がガイアに伝わったという確信はあった。
「剣をっ!」
 部屋を震わす大きな声が、ガイアの胸から飛び出した。
 私の右手側、薄汚れた壁を穿つ傾いだ扉が、声音に押され、錐で刺さるような軋み音をたてながら、勢いよく開いた。
 その外側、狭い廊下で、重たい金属が床を打ちすえる音と、2人ばかりの驚声が聞こえた。縦長く切り取られた空間で、おどおどした二組の視線が泳いでいる。
 一つは、私をここに案内し、ガイアの病状を解説した医者。もう一つは下男らしき小柄な老人のものだ。
 二つとも、焦点が合っていない。
 痩せ細った重体の怪我人が、右腕一つで大の男……私の体躯をそう形容してよいかどうかは兎も角……を吊し上げている。それもかなり不自然な体勢で。
 医者は目を見開き、下男はしきりに瞬きをしている。現実を目撃しているという感覚は、この二人にはないのだろう。
「剣をっ、早く!!」
 再びガイアが叫んだ。
 その覇気で、下男が現実に引き戻された。
 床に張り付くように落ちている重い金属の固まりを、医者と二人かがりで漸く運んできた長大な剣を、腰の曲がった彼がたった一人で拾い上げた。俗に「火事場の馬鹿力」というものであろう。続く、
「投げよ!」
 というガイアの声が、さらに老僕を突き動かした。
 彼は剣を放り投げた。長大な剣が、弧を描いて宙を舞った。
 抜き身が、ガイアの足下に落ちた。
 柄を、左手で掴む。掴み挙げる。逆手で突き上げる。切っ先が跳ね上がる。刃が左腕に当たる。
『何をするの!?』
 《それ》が金切り声で叫んだ。
 ガイアは答えなかった。
 無言で、剣を振り抜いた。
 腐った腸詰めの皮が破けた。
 液体が吹き出た。血液ではない。アンモニア臭をまき散らす、腐った肉汁だった。
 ガイアの身体から切り離された《それ》は、最初のうちは元に戻ろうと足掻いていた。ガイアの右肩につながって居たいと切望し……《それ》に意識というモノがあるのなら、だが……のたうちながら彼女ににじり寄った。
 だがガイアが《それ》を受け入れるはずがない。
 膝をつき、大きく肩を揺すってようよう息をしているのだが、彼女の眼光は覇気にあふれ、鋭かった。
 赤紫色の乾いた唇から、地を這う低さの引導が溢れ出る。
「そこを、動くな……。切り刻んでくれよう」
 彼女が杖とすがっている長大な鉄のかたまりが、人脂にまみれてぎょろりと光っている。
『ギィッ』
 退路を断たれた《それ》は、新たな道を私の身体に求めた。
 《それ》は最後の力を振り絞っていた。私の首にしがみつき、肉を食い込ませ、私の肉体に侵入しようとする。
『生きたい、生きたい、生きたい、生きたい』
 腐肉は呼吸のように言い続けた。
 私の首に巻き付く力は次第に失せてゆくが、それでも決して放そうとはしない。
 私も必死だった。
 爪を肉に食い込ませ、非力な力で《それ》を引き剥がそうとした。
 必死と必死の争いは、どうやら私の勝利で決着した。
 首のまわりの肉紐を何とか解し、ようやく呼吸の自由を得た私は、かすれた声で唱えた。
「古の仁者よ、私と共に人を救い給え」
 肩に、熱を感じた。
『ギャッ!』
 《それ》は悲鳴を上げて飛び退いた。床にぼたりと落ち、2度3度大きく痙攣した。
 私は肩の「熱」を長柄物と変化させようとした。そう、あの時のように。
 だが、止めた。
 《それ》は、すでに自発的な動作を失っていた。床の上で、フライパンの上の牛脂のように形を崩してゆく。
 溶けて、縮んで、干涸らびて、やがて枯れ枝ほどの太さと軽さの、死んだ右腕になった。
 強烈な腐臭をあげるその物体からは、数え切れないほど大量の、肥えた蛆虫が川と這い出てきた。
 その対岸で、ガイアが力無く倒れ込だ。
 黄土色の汚物の川を、私は一足で飛び越えた。
 抱え上げたガイアの身体は軽く、籾殻袋のようだった。屈強な剣士であった彼女が!
 彼女を強く抱きしめたい心を、私は必死で押さえた。彼女が、手の中で崩れてしまうような気がしたのだ。
 私はふと気付き、ベッドの上からシーツを引き剥がした。ごわごわした布を裂きながら、
「意識は、ありますか?」
 恐る恐る、声をかけた。
 ガイアは何も言えなかった。言えなかったが、幽かにほほえみを浮かべて応えてくれた。
 私はこわばった笑みを返すと、ドアの方を見た。
 そこでは医師と下男が、だらしなく腰を抜かしていた。
「腕を、切り落としました。腐って、思うままに動かせなくなっていた腕を、切り落としました。傷口の、処置を」
 私が、裂いたシーツでガイアの右肩を押さえながら言うと、医師はがたがた震えつつもうなずき、四つん這いになってこちらへ近寄った。
 その道すがら、彼は拳二つ分ほど身体をよじった。引きつった横目の先に、落ちた「腕」があった。
 医者は三年物のチーズのように顔をこわばらせていた。


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