3.邂逅


 山奥の、小さな盆地。
 本来ならガイア大陸を治めるべき帝室が、「禅譲」という茶番の末、押し込められた土地。
 大公ハーンの隠棲の地、領邑500の小公国ミッド……で、あった場所。
「何故それをこの俺が『憶えて』いるのか?」
 地下室だと思われる、埃っぽい石畳の上で、丸裸の男が一人、腕組みをしていた。
 尻餅をついて見上げる天井の、それほど高くない所に、人間一人がちょうど落ちてこられそうな穴が開いている。
 どこまで広がっているのかわからない真っ暗な地下室の奥から流れ出す、硫黄の臭気を孕んだ生暖かい突風が、天井の穴から抜けてゆく。
「火山ガスが充満していた、か」
 暗闇に馴れた目が、火山性ガスと「それ以外の危険」から逃げ遅れた人間たちの残骸を見つけた。
「死人に、服はいらねぇやな」
 男は外傷の無い……つまり、「それ以外の危険」が来る前に窒息死した……兵卒風の遺体を選んで、衣服を引き剥がした。
「剣も要りそうだなッ!」
 兵卒が帯びていたサーベルを引き抜きざま、男はそれで闇に斬り付けた。
 生木が折れたような音がした。
 続けて、枯れ木が倒れたような音もした。
「着替えぐらいゆっくりやらせろ、って言っても聞こえねぇか。どうやらおまえら、人間外らしいからな」
 男は、床の上を匍匐前進してくる下半身のない老侍女、だった「物」の頭を踏み潰すと、天井の穴目掛けて垂直に飛び上がった。
 
 「それ以外の危険」……つまり、「グール」だとか「堕鬼」だとか呼ばれている化け物……に命を奪われた者達は、生きている者にすがる。
 生きている者から命を取り上げれば生き返ることができる、という声が、彼らには聞こえるのだ。
 その声が、自身を死に至らしめた張本人だという事に気付かないまま、彼らは声の命ずるまま操られ、動く。



「今度は崩れねぇでくれよぉ」
 丸一日前までは、大きな建物の一階の廊下であったらしい場所の、大理石の裂け目にぶら下がった男は、辺りと足の下の空間を見回しながら、ゆっくりと地面の上に這い上がった。
 下塗りを済ませたばかりのカンバスのような景色が、そこに広がっていた。
 湿った灰色の地面、同じ色の空、同じ色の雨。
 ダマになった絵の具のような凹凸は、人間の命と暮らしの遺跡。
「ここいらにはオーガの気配が無い……。気配を消せるほど離れた所から、死に損ないのグール共を操れるハズはねぇンだが」
 つぶやいた後、男は頭を抱え込んだ。
『厄介だぜ。自分の事は名前すら思い出せないってのに、どうでも良いような「他の事」はしっかり憶えてやがる』
 後頭部の大きなカサブタが、ずきずきと痛む。
 自嘲じみた笑みが、男の口元に浮かんだ。
 と。
『……この気配は……。人間!?』
顔を上げた途端、男は、自分の勘が半ば外れ、半ば当たっていたことに気付いた。
 男に向かってゆっくり歩いてくるモノは、見上げるほどに大柄だったが、枯れ枝のような手足と、土気色の顔色をしている。
 手にした剣は、チーズも切れないくらいに刃こぼれしていた。
『使える……。いや、使えた、か……』
 これが生きた人間だったなら、恐らく「国一番の剣の使い手」だったかも知れない。
 灰まみれの軍服の襟章は、そいつが元々ミッド公室の親衛隊員だったことを現している。
 いや、今でもそいつは親衛隊員なのだろう。
 兵卒のみなりをした男に、
「両陛下を……姫殿下を……お守りせよ……」
と、命ずる。
 
 ミッドは公国である。国主は「大公」であり、「殿下」の尊号で呼ばれるべき身分だった……本来ならば。
 だが、ミッド大公ジオ・エル=ハーン……通称ジオ3世……は、人々から「陛下」と呼ばれていた。
 15年前まで、彼はこのガイア大陸の全土を統べる「皇帝」だった。
 名君であったとは言い難い。
 わずか2歳で玉座に座らされて以来40年、国璽(こくじ)に触れることすら出来なかった、傀儡(かいらい)の帝であったのだから。
 彼には何の業績もない。その代わり、何の不行跡もなかった。
 そんな、玉座に座るだけの人形から脱するために、ジオ3世は帝位を自ら捨てた。
 そして己を操る糸を掴んでいた、摂政のヨルムンガンド・ギュネイをその椅子に座らせ、自身は生きて行くに最低限の扶持(ふち)を得られる、小さな邑(むら)の主になった。
 だが、コルネット(貴族用小冠)は要らぬ……という願いは叶えられなかった。
 判官贔屓の平民達が「位を追われた哀れな皇帝」に同情しているのを、新帝は知っていた。その民の情を、己に向ける方法も、同様だ。
 ヨルムンガンド帝は小さな村を小さな公国とし、廃帝の頭上にクラウン(帝王用大冠)を乗せた。
 その上でジオ3世を「陛下」の尊称で呼び、彼に臣下の礼をとり続けた。
 とは言え、実質的には何の権限もないのだ。本当の「陛下」であった頃と、何ら変わらない。
 さらに新帝は、「皇后」を亡くした「陛下」の元に、16歳になる妻の連れ娘を嫁がせた。
 この、27も年下の新妻に因り、ジオ3世はヨルムンガンドの死後も「陛下」と呼ばれ続ける事となった。
 二世皇帝フェンリルが、父親違いの姉の婿を……表面的に、ではあるが……敬い、父の頃と同じ待遇を続けたためである。
 絶対君主の言動は、臣民の鑑である。
 皇帝が「陛下」と奉る哀れな小君主を、小市民達もまた「陛下」と呼んだ。
 そうする事によって、彼らは自分たちの無責任な同情心を満足させていたとも言える。
 
 人外の物と化したミッドの親衛隊員は、瞳孔の開ききった目に懇願の色を満たし、もう一度
「陛下と……姫殿下を……」
と言い、元来た方を指した。
「はっ。任務、了解いたしました!」
 とっさに男は、右の拳を左の胸にあてがった。他国では使用禁止の勅令が出ている、亡国ハーン式の敬礼だった。
 親衛隊員の干涸らびた口元に、笑みが浮かんだ。
 途端、彼の身体から淡く赤い光が発せられた。
 親衛隊員の身体は、陽炎のように崩れ、蒸発して、消えた。
 彼の立っていた地面の上には、小指の先ほどの紅い石が残った。
「アーム……人の心の結晶……。死に逝く者の無念の具象……」
 男は、かすかに輝く紅い小石を拾い上げ、握り締めた。
「……どんなに腕の立つ剣士でも、兵卒に過ぎねぇンじゃ、後事を任すに安心しきれねぇって訳かい……」
 男は駆けだした。小さな石ころになってしまった親衛隊員が指した方へ、足が自然と向かう。
『後味悪ぃぜ。もうとっくに死んでるにしても、さっきのバァサン、素っ裸の俺を「不審人物」と思っただけかも知れねぇ。身なりからして、大公妃か、姫君の侍女って風だったからな』



 灰色の雨が、死の大地を敲く。
 動く物はない。ただ一つ、彼方にそびえる、大樹の梢以外は。
 燃え上がる炎のような樹だった。幹も葉も、暖炉の火の色をしている。
 そして幹も葉も、トネリコの類に似た形をしていた。
 紅いトネリコの根元には、いくつもの死体があった。
 先の親衛隊員や、老侍女と同じように、精気を奪われた枯れ木のような死体だった。
 やけどを負い、衣服を失った者が多い。
 その死体が、ことごとく紅いトネリコの根や幹を抱きかかえている。
 ある者は安堵の表情で、別の者は慈愛の顔つきで、紅いトネリコを慕い、守ろうとしている。
 男は、根元から数m離れ、紅いトネリコの周囲を回った。
 亡骸の数は15。
「いや、16か? 幹の中に……女がいる……」
 真紅のトネリコの幹から、18,9歳とおぼしき女性の、白い上半身だけが浮き出ていた。
 しなやかな肉体を無骨な幹につなぎ止めているのは、赤黒い鎖だった。
 まるで足の甲に浮き出る血管のように、その女性の下半身を覆い、捕らえ、締め付けている。
 その様を例えるなら、囚われし乙女のレリーフ。
 悲しげで、苦しげな眉。
 強い決心と、その決心に対する不安に満ちた口元。
 穏やかに、焦燥する、閉ざされた瞼。
「俺は、お前さんに似た女(ヒト)を、知っている。残念なことに、それが誰なのかは覚えちゃいないが」
 脳漿が沸騰するような痛みに耐えながら、男は樹の中に身を埋める女性に近付いた。
「彼女は、運命に逆らわない女だった。良く言えば従順、悪く言うと無自我」
 女性の瞼が、かすかに動いた。
「だが、お前さんは違うようだ。少なくとも、何かをしなければならないと思っている。……違うかい?」
「父の仇を討ちたい。母を助け出したい。この国を護りたい」
 女性が、静かに語った。
「でも私にはその力がない。だからその力が欲しい。でもそのためにどうすれば良いのか、解らない」
「そうやって悩んでる内に、人外に堕ちたって訳だ」
「人……外……? 私が、人でなくなった?」
「足下、見てみな。お前さんの『力が欲しい』と言う欲望のために、犠牲になった者達の骸が、ゴロゴロしてる」
 目が、見開かれた。
 翡翠色の瞳から、驚きと悲しみの涙があふれた。
「私は……みなを犠牲にしてまで強くなりたいなんて……」
「……連中が、お前さんに強くなって欲しかった、のかも知れんがね。あるいは、あんたにだけは、ここに留まって欲しいと願ったか」
 男は、握り締めていた掌を、ゆっくりと広げた。
 小さな珠が、紅く輝いた。
「現に、こいつはあんたのことをえらく心配していたぜ……クレール=ハーン姫よ」
 口をついて出てきた名前に、男自身が驚いていた。
 世が世なら「クラウン・プリンセス」であったかもしれない、ジオ3世の一人娘は、まだ確か13歳のはずだ。
 しかし目の前の女性は、それより5歳は年かさに見える。
 だが、彼女の心は今だ13歳の童女のままらしい。
「私のために人が死ぬのは、もうたくさん。誰も傷付けたくない。誰にも傷付いて欲しくない。でも……私は、どうしたら良いの?」
不安をあらわに、泣きじゃくる。
「少なくとも、ここに根を張るのは、間違いじゃねえのかな」
 男は、親衛隊員の「魂(アーム)」を、クレール=ハーンの足下に投げ捨てた。
 両の掌が、熱い。頭の奥で、声がする。
[主公よ。我らの力を解き放ちたまえ]
 男の両掌が、互いを引き寄せ合っている。
 拱まれた掌を、当たり前の所作のように、胸の前へ掲げた。
 重なり合った掌底に、力が、他人の力と、自分の力が、集まってくる。
『強い。「これ」は、どんな武器よりも強い』
 男は、みなぎってくる力に震えた。
 この力があれば、何でもできるかもしれない。例えば……。
「この禍々しい樹を、伐(き)る」
 言い終わると同時に、両手は反発する磁石のように弾け広がった。
 紅蓮の光が二筋、掌からあふれ、一対の剣の形を為した。
 袈裟懸けに一閃。
 赤い剣は紅いトネリコと白い人型とを両断した。
 
 塩水が蒸発するような光景だった。
 巨大なトネリコと、15の亡骸と、1つの小さな珠は、赤い閃光となると、土砂降りの雨のように、一所に降り注いだ。
 灰色の大地に横たわる、真っ白な乙女の身の上に。
『取り込んでいる……死んでいった者達の無念を……。これはコイツ資質に因る意志か、それとも帝室に生まれたが故の運命か』
 光の雨は一瞬で熄(や)んだ。
 地面の上で、姫に取り込まれることを拒み、姫を見守ることを望んだ小さな命の欠片が数個、露のように赤い光を弾いていた。



「お前さんの守るべき国……このミッドっつう小さな国は、もう滅ンじまった。……お前さんは先ず、その事実を受け入れないといけねぇ」
 わずかに残った壁の基礎に、男は腰掛けた。
 すぐ傍らの、崩れ落ちた天井だった大理石の塊には、品も作りも上等だが、いささか前時代的で、かなり年寄り趣味な、サイズの合わない、灰まみれになった男物の服をまとった、クレール=ハーン姫がしゃがみ込んでいる。
「いや、むしろ、その事実を広めた方がいい。国は丸ごと消滅、ハーン帝室の血も途絶えた、とな」
「それは事実と違います。私は生きているし、母も生きています……多分」
 膝を抱え、顔を伏せたまま、それでも力強く、クレールは訴えた。
 男が、低くつぶやく。
「嘘も方便。大体、親父さんの仇や、お袋さんを誘拐(さら)った犯人を捜すには、我々の動きが知れない方がいいンじゃないか?」
 クレールの瞼が、かすかに開いた。
「我々?」
 男のにやけた顔が、目に飛び込んできた。
「行きがかり上、仕方あるまい。……どうせ暇だし」
「暇……!?」
 幼い眉をつり上げ、クレールは顔を上げた。
 男は、空を見ていた。
「敵さんに正体がばれたら、間違いなく殺されるぜ。そうなったら嘘が本当になっちまうだろ? それが嫌なら、偽名でも考えるこった」
 濃い灰色の雲が、ゆっくりと動いている。
「私は、母のくれた名と、高祖の気概を嗣ぐ姓を、捨てる気はありません」
 クレールはもう一度顔を伏せた。
「クレール=ノアールってのはどうだい? お袋さんのくれた名と、高祖の名だ」
「名も知らぬ人に、名付け親になって欲しくはありません」
 白髪頭に幼い心を持った美しい姫君は、膝を抱え込んで泣いていた。
「ちっ」
 男は自分の頭を軽く叩いた。
『確かに、自分の名前も解らないンじゃ、他人サマの名前を考えてる場合じゃねぇな』
 頭上の雲中を、稲光が錯綜している。
『ライトニング(稲妻)……いや……』
「ブライト……ソードマン」
「エル・クレール=ノアール、にします。あなたの好意と、父の名から取って」
 「エル・クレール」の強引に作った笑みが、「ブライト」に向けられた。
 
 高く遠い天から、雷鳴が聞こえる。

【覚醒編    
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