2.覚醒
クレール=ハーンが、自分の身体で唯一気に入らない所は、髪の毛だった。
周りの者は気を使って「金髪」と言ってくれているが、自分にはどうしても「赤毛」としか思えない。
「金髪というのは、母上の髪のことをいうのよ。ねぇ、父上?」
まだ三十路を超えぬクリームヒルデ妃と、すでに老境にかかろうというジオ三世大公は、顔を見合わせて苦笑いをした。
童女のように小柄な公女様は
「だからきっと、私は母上のような、穏やかで、優しくて、おしとやかな女王には成れないわ」
と言うのを口実にして、少年の服装で日々を過ごす。
それは、「跡継ぎの公子」を欲しがっていた父王の趣味にも合っていたので、余程のことが無い限り、誰からも咎められなかった。
ただ、母妃だけは
「今度の、13歳の誕生日祝いパーティの時ぐらいは、母さまのデザインしたドレスを着て欲しいわ」
と、嘆息していた。
「解っています、母上」
両親を深く愛している、賢くて小柄な公女は、精一杯の笑顔で応える。
『本当は絶対にイヤ。ドレスを着るのも、誕生日に舞踏会をやるのも。だって…あの男が来るのだもの』
ギュネイ皇帝が領内の「小国」……つまりここ「ミッド公国」のような……に派遣する『監国謁者(かんこくえつじゃ・目付役)』が、その日に来ることになっていた。
派遣される者の名を聞いて、クレールも、父公も、母妃も、眉をひそめていた。
ルカ・アスク。
30過ぎの独身男。
領邑100戸の子爵。
無能な子役人。
ギュネイ二世皇帝フェンリルの腰巾着。
そして……。
一年前、12歳の童女クレールに求婚した愚か者。
それでも、その日はやってくる。
誕生祝いのパーティは「ミッド公国」で行われるものとしては異例な豪華さで……しかし、他の国々から比べると異様な質素さで……開催されるのだ。
明後日には。
一撃。
黒みを帯びた赤いたてがみの獅子が、鋭い前足の爪を振り下ろした瞬間、女親衛隊長ガイア=ファデッドの右腕は、粉々に吹き飛んでいた。
クレール=ハーンには、悲鳴を上げる暇もなかった。
ただ独り、累々たる死骸の中で、壁を負い、短いサーベルを握り締めた。
無機質なライオンは、滑るように突き進む。
足音はない。息吹もない。
ただ殺気だけを吐き散らしながら、猛然と突進した。
クレールが目をつむり、身を沈めた直後、壁は突き破られた。
土煙の匂いが、背後で巻き上がった。
小柄な少女は、彼女を守ったがゆえに屍となった者達の身体の上を、必死で走った。
目の前の出口。大広間へとつながる廊下。
追ってくる殺意。
華美ではないが壮麗なドアの向こうでは、ささやかなパーティが開かれているはずだった。
公女クレールの13回目の誕生日。
普段着ることのない、裾を引きずるドレスをまとって、母の奏でるチェンバロに合わせて踊らなければならないはずの日だった。
足がドレスに絡んだ。
倒れ込みながら、大広間のドアを開けた。
瓦礫の山が、そこにあった。
地味好みの大公・ジオ3世が、王の居城としては最低限の装飾しか施さなかった謁見の間は、壁にも床にも天井にも、大きな穴が開いていた。
クレールの部屋のと同じだった。
巨大な力で突き破ったような穴と、巨大な力に押しつぶされたような人間の残骸が、そこには無数にあった。
そして正面の玉座に、父王ではない男が座っていた。
両の手から、赤い鎖が一本ずつ延びている。
「ルカ」
ギュネイ皇帝の派遣した『監国謁者』が、形の上では主である者が座るべき場に、掛けていた。
「ルカ! 何をした!?」
小さな身体からは想像できない大声を、クレールが発した。
『監国謁者』ルカ・アスクは、答えなかった。
その痩せた、いかにも都会の貧乏貴族的な風貌をした小役人の全身に、赤い鎖が巻き付いていた。
いや、それは彼の肉体であった。
皮膚を突き破った血管が、鎖の形を成して脈を打ち、蠢いている。
ルカは右の手をぐいと引いた。まるで二頭立て戦車の手綱を操るような仕草だった。
と。
殺気が、クレールを捕らえた。
赤いたてがみのライオン……の形をした、生ぬるい液体が、クレールを頭から飲み込んだ。
「貴女がいけないのですよ、クレール様」
ルカの「声」が、その液体の中で響いた。
「貴女が私を夫にしてくれないからいけないのです。貴女が私の妻になってくれたなら、私は『あの方』からこの国を護って差し上げたのに」
「なっ!?」
口を開いた刹那、赤黒い液体がクレールの体内に流れ込んだ。
体中の熱が、一気に下がる気がした。
呼吸ができない。気が遠退く。
「大公殿下と貴女が承知して下されば、このような事にはならなかった。妃殿下も『あの方』に連れ去られずに済んだはずです」
赤い液体の向こうで、ルカが左の鎖を引いた。
もう一頭の獅子が、猛然と駆け込んできた。
その牙は、老いた君主の頸に、深々と食い込んでいた。
『父上!!』
叫びにならない叫びで、クレールは身を震わせた。
「もっと穏やかにするつもりだったのですよ。つまり、貴女の夫となって、私がこのミッド公国の摂政……実質的な王と成ってしまえば良かった。それを、あなた方は拒絶した」
ルカは、もう一度左手の鎖を引いた。
紅蓮の獅子が、大きく跳んだ。
「さようなら、大公殿下。ミッドは私が治めます。あなたの愛娘を我が愛奴として、正当に嗣がせていただきましょう」
獅子は、その身を穴だらけの床に叩き付けた……捕らえていた獲物諸共に。
黒ずんだ赤い液体が、床一面を濡らした。
獅子の形も、人の形も、粉々に無くなっていた。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
心臓が破裂する。
身体が燃える。
どす黒く赤い液体の中で、呼吸の出来ない密室の中で、クレールは絶叫した。
その時、三筋の光が閃いた。
一つは、窓の外から。
一つは、血塗られた床から。
一つは、クレールの躰から。
全てが震えた。
この小さな城の、唯一と言っていい飾り気であった、窓のステンドグラスが、一斉に割れ散った。
硫黄の臭う熱風が吹き荒れる。
「何だ? 地震っ!? いや、ムスペル火山が噴火したか!?」
狼狽するルカの全身に、激しい痛みが奔った。
左の手の鎖の先、すでに形を失った彼の血肉が、燃えるように蒸発した。
右の手の鎖の先、獅子の形をした彼の血肉が、弾け、沸騰した。
「『アーム』だ! ジオ大公とクレール様が、無念の魂と化した!」
左の鎖の先の床の上には、確かに赤く輝く丸い貴石が落ちていた。
『ジオ大公の心は、妃を失った無念と、国を滅ぼされた無念と、どちらに因って結晶となったのか?』
「ともあれ、二つも『アーム』を献ずれば、私の『あの方』からの信任は、いよいよ厚くなる!」
歪んだ笑みが、ルカの顔を支配した。
直後。
小役人ルカは、己の五体が崩れ落ちた事に気付いた。
右の手の鎖の先に、美しいプラチナブロンドの乙女が立っていた。
身にまとう、破れて寸の合わないドレスは、確かに先ほどまで幼いクレール姫が着ていた物だった。
赤い光が、その乙女を包んでいた。
柔らかく優しい光が、ルカの身体に突き刺さる。
「な……そんな……はずが……。生きたまま……『アーム』の力を……発動……」
空気を揺らす2度目の爆発音がした。
地鳴りがする。
大地が揺れる。
熱風が吹く。
ルカの身体は、どろどろに融け、燃え上がり、灰になった。
『クレール』
呼ばわる声に、彼女は足下を見た。
赤く丸い石が、火山灰の中で輝いていた。
『クレール、我が娘よ』
拾い上げると、それはまばゆく光って、形を消した。
「……父上?」
左の腰が、暖かい。
正邪を量る天秤の形の紋章が、そこで赤く輝いている。
『我が名は【正義】。釣り合わぬ錘を糾す者。正しき者を守る者』
父の声はそれきり聞こえなくなった。
クレールは天を仰いだ。
「やっぱりクレールは母上のような、穏やかで、優しくて、おしとやかな女王には成れません。……父上の『本当の仇』を討って、囚われた母上を助け出すまでは……」
暗雲が蒼天を覆い尽くしてゆく。
「誰か、私に力を貸して」
灰色の雨が、彼女の頬を伝って落ちた。
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