4.旅立ち


 田舎町の食い物屋は、とんでもなく美味い物を出すか、途轍もなく不味い物を出すかの両極端だ。
 その日、昼飯を摂るために彼らが入った「夜になると居酒屋になる飯屋」は、運の良いことに前者だった。
 
「身体は、心に支配されているのさ」
 山盛りのパスタを、ひたすらフォークに巻き付けながら、ブライトは言った。
 前置きも、続きもない。
「言っている意味が解りません」
 クレールの、濃厚なコンソメのスープに人を撲殺できそうな堅さのパンを浸した手が、硬直した。
「……あんたの親しいお友達で、もうじき結婚するって娘さんはいたかね?」
 言葉の脈絡がつかめない。クレールは眉をひそめて、しかし頷いた。
「その娘さんが、相手の野郎に出会う前の顔や身なりと、出会ってからコッチの風貌と、思い出して比べてみるがいいさ」
 早い瞬きが、男装の麗人の碧色の瞳を覆う。
 クレールの脳裏に、五つ年上で、学友で、教育係で、侍女で、近衛の騎士であった、一人の女性の顔が浮かんだ。
 
 ガイア=ファデットは、土地の有力者の末娘として生まれた。
 一歳の誕生日のことだ。祝いに贈られた装飾品や化粧道具、美しい布や裁縫の道具といった、娘向けの品々に、この赤子はまるで見向きもしなかった。つぶらで黒目がちな瞳は、宴の間中、親類の剣士が帯びていた儀礼用の長剣にばかり見つめていた。
 これを見た酔狂(としか言い様のない)な父親は、何を思ったか彼女を「跡取り息子」として育てることを宣言した。
 そして彼女は父の宣言通りに雄々しく育てられ、結果、風貌はどこから見ても「たくましい戦士」となった。
 実際、彼女は剣士としての腕前も優れていた。なにしろ、真剣での練習試合に応じてくれる者が、国の兵士・騎士の中にはほとんどいなかったくらいだ。
 そのうえ、眉の凛々しい、鼻筋の太い、整った顔立ちで、しかも背は高く、肩幅の広い、胸板が厚い「ハンサム」なのだ。
 彼女が礼服をまとって舞踏会などに現れると、娘達はのぼせ上がり、爽やかな笑みを見た令嬢達が卒倒するほどの「漢振り」だ。
 それが、どういった訳か、宰相の倅と縁組むことになった。
 レオン=クミンは、病気かと疑うほどに色白で、細身で、頼りなげな姿をしている。
 正装して刀を帯びると、ふらつきながら左によろけて歩くような脆弱な男である。
 ただ、頭は切れる。知識が豊富で、知恵が回る。
 まだ二十歳になるかならぬ身で、祐筆……つまるところ、かなりの寵臣……となり、大公に献策しうる席次を与えられたほどだ。
 この二人の縁談は、一応、親同士と大公がまとめたものではある。
 が。
 大公の側近とクラウンプリンセスの近衆であるから、どうしても日々顔を合わせ、言葉を交わすことになる。意識をするなと言う方が無理だろう。……どちらかが思いをうち明け、相手の心を知って驚喜するのも、時間の問題だった。
 そうして。
 正式に婚約し、婚礼の日取りが大まかに定まった頃から、ガイアは変わった。
 丸くなったのだ。
 太ったというのではない。
 眼差し、所作、言葉の端々、それが柔らかくなった。
 爽やかな笑みが消え、暖かい微笑みが現れた。
 その変化をまだ幼かったクレールは、
『美しくなった』
と感じた。
 
「つまりだ。好いた男と結婚するという喜びの心が、その娘さんの容貌を変えたのさ」
 言うと、ホークの先にできあがった、リンゴほどのパスタ玉を、ブライトは信じられないくらいに大きな口を開けて頬張った。
「それと、人間がオーガ化する事と、どういう関係があるのです?」
「ぐ……」
 口の中の麺を喉を膨張させて胃の腑に落とし込み、頬に付いたトマトソースを袖で拭うと、ブライトは急に険しい顔になった。
「幸福の中に居れば、体中が幸福に震える。不幸なときは総身が暗く落ち沈む。欲に駆られた者の顔は、欲に歪む」
 彼はふっと瞼を閉じ、息を一つ吐いた。
「普通に生きているだけでも、心が感じた通りに顔が変わるンだ。だとしたら、普通でない力を手に入れたらどうなる? それによって自分の願いが叶うとなったら? ……表情が変わる程度じゃ済まない……違うか?」
 クレールは、答えなかった。ただ、唇を噛んでいた。
 心中には黒い疑念の渦が巻いている。
「おまえさんのウチをぶち壊したライオン野郎は、文字通り力ずくでおまえさんの一家を屈服させたいと願った。
おまえさんはその力で大人並みに戦いたいと願った。
ライオン野郎は願い叶って化け物になり、おまえさんはそいつをぶっ倒す能力を手に入れた。
つまり、あいつ等も俺等も、突き詰めれば同類さ」
 ブライトがため息混じりに言うと、向かいに座った碧色の瞳が、不安とおそれと驚愕の光の矢で、彼を射抜いた。
「……友達へのプレゼントに最適な物を見つけたとき、顔はどう変わる? 落とし穴に誰かが引っ掛かった瞬間は? どっちも同じ表情だ。笑顔っていう、な」
「でもっ」
「違うのは、その時の心。喜びの下にある優しさ。そして、それこそがオーガとオーガハンターの違い……だと思う」
 言葉尻に、力がなかった。
 大体、ブライト自身に確信がないのだ。
『彼を知り、己を知れば、百戦して殆(あや)うからず。彼を知らず、己を知れば、一勝一敗す……ってぇけど、彼を知り、己を知らずば、一体どうなるンだろうねぇ』
 薄く目を開けると、相変わらず二筋の碧色の矢が、自身に注がれていた。
「手に入れた力、それをどのように用いるか。それを定める心が、魔性と人間との違い……なのですね?」
 語気が強い。
 ブライトは仕方無しにうなづいた。

【覚醒編    
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