クレール光の伝説 情報企画外商部 銭澤時計店
前田慶次郎利益の年齢に関する考察のようなもの
この記事は2006年9月28日(木)にブログに書いた物の内容に若干加筆したものであり、個人的な解釈のメモです。 調べ物の参考にはなるかも知れませんが、鵜呑みにはしないことをオススメいたします。
また、年齢表記は便宜上当時の計算法である「数え年」ではなく満年齢を使っています……だって計算しやすいから。
疑問?
隆 慶一郎先生の一夢庵風流記を読み返していたら、ちょいとばかり疑問を生ずる。

前田慶次郎利益の年齢がつかめないのだな。
原 哲夫センセの花の慶次の所為で、若々しい姿しか想像できないのが原因ではあるのですが。

兎も角、前田慶次郎は実在の武将であり、生まれて生きて死んだのは確かなこと。
その生年と没年をちょいと探ってみました。

参考にしたのは傾奇御免さま・網上空論前田慶次の年表)・統合戦争辞典Wikipediaなど。

穀蔵院飄戸斎は一体何歳なのか?
結論から言うと、前田慶次郎利益は年齢不詳と(苦笑)。

まず生年からして
1533年、1540年、1541年、1542年、1543年、1552年、1555年
と、諸説あるのがややこしい。
33年説と55年説なんざ、20年の上も違っている。
(主流は1533年説と1541年説らしいが、それでも8年の誤差がある)

さらに没年も
1605年、1612年
と諸説あったりして。

1533年生まれ1605年没説は、加賀藩前田家の史料によるもので、
「1605年に72歳で死亡」という記述から生年を逆算したものらしい。
これだと叔父である前田”犬千代”利家(1537年生。36年・39年説もあり)より年長ということになる。
(慶次郎1541年生まれ、利家1537年生まれとすると、カツヲとタラオ同様「年の近い4歳違い叔父甥関係」ということに)
利益の養父・利久の生年は不明ですが、実父と言われている滝川益氏は1527年(大永7年)生まれとされています。
ちなみにもう一人の実父候補である滝川益重は1523年(大永3年)生まれ。
彼らの生年が正確な数字であると仮定した上で、利益が33年生まれだとすると、益氏は6歳でパパに、益重でも10歳でお父さんになっていた、ということになってしまいます。
肉体的な成熟というものは個人差のあることですし、武家は婚期が早いなどの「理由」はあるでしょう。
しかし、思うに男の人の場合はこの年齢ではちょいと早過ぎやしませんか、と。
……女の子なら10代前半で子持ちもあったろうけど。女の子は肉体的な成熟が総じて男の子よりも早い(ような気がする)わけだし。
特に、早婚が多かったと思われる中世には、ローティーンの母親がわりと多くいたでしょう。
前田家で言えば、おまつ様も満年齢換算で12歳のときに第1子を出産していますから。

なお、慶次郎41年生説を採れば、益氏14歳、益重18歳という計算になります。

追記。
前田利益については、生年だけでなく、諱や通称についても諸説があります。
諱は、利益としますの他にも、利太としたか・利大(としひろ、ないしは、としおき)・利貞としさだ利卓としたかなど。
通称の「けいじろう」についても「慶次郎」だけでなく、「慶二郎」「啓次郎」という文字が宛てられている場合があるとか。
あとは「宗兵衛」という通称もあり。
では各説生まれとした場合の慶次郎の「その時の年齢」を試算してみましょう。

1567年に「荒子の城のこと(織田信長が、病弱だった利久に代わる荒子城主として、「養子の慶次郎」ではなく「実弟の利家」を指名した)」があったときには
33年生まれ説だと34歳って勘定になる。
40年生説だと27歳
41年生説だと26歳
42年生説だと25歳
43年生説だと24歳
52年生説だと15歳
55年生説だと12歳

この「信長による介入」により、慶次郎とその妻子は、父・利久とともに荒子城から出る。
「米澤人國記」によると、
1567年〜1582年まで京都にいて、公家文人と交わりを持った
となっている。
(ところが、伊勢の熱田神宮には『1582年に「荒子の住人前田慶二郎」が奉納した太刀』があったりする。もっとも、これが利益であるかどうかは不明だが)

しばらく前田家からは離れていたが、前田家の資料によれば、1580年頃、能登を得た利家を頼って、その旗下に加わります。
利家と利久は少なくとも表面上は和解していたらしく、利久は利家が不在の時の金沢城代をつとめたり。

なお、真田家の資料「加沢記」によれば、この頃の慶次郎は滝川一益旗下にあって、武田掃討戦に参加。
武田勝頼の自害によって武田家が滅亡すると、本拠地であった上州厩橋城(江戸期には「前橋城」と呼ばれる。現在の群馬県前橋市)に入っていたということになっています。
(んで、郊外で野生馬の頭だった「松風」を掴まえたんだな)

では、本能寺の変が起きた天正10年6月2日(ユリウス暦では1582年6月21日、グレゴリオ暦換算で1582年7月1日)の慶次郎利益の年齢を。
33年生説→49歳
40年生説→42歳
41年生説→41歳
42年生説→40歳
43年生説→39歳
52年生説→30歳
55年生説→27歳

余談だけど、武田滅亡〜本能寺変の頃、真田昌幸パパ(天文16年(1547年)生)は35歳。
信幸兄ちゃん(永禄9年(1566年)生)は16歳。
弁丸(信繁/幸村)たん(永禄10年(1567年)生)は15歳(永禄13年(1570年)生説をとると、12歳)。
なお、「加沢記」には、慶次郎は信幸お兄ちゃんと仲良しだったってな記述があるらしいですぞ。
親子ほど年の離れた友人か……。

織田信長の死後、柴田勝家側についた滝川一益は、羽柴(豊臣)秀吉と争うこととなます。
そして、賤ヶ岳の戦い(天正11年(1583年))で敗戦。
同じく柴田側に付いていた前田利家は、戦の最中に突然撤退。羽柴軍に投降して、逆に柴田勢を攻める側にまわって戦功を上げます。
戦後、一益は所領没収。利家は本領安堵+加賀の二郡の加増。
もし、加沢記が記すとおり利益が滝川旗下にあったなら、前田家に戻ったのは賤ヶ岳の戦いの後と考えると、自然なんじゃないかと。

兎も角、前田家に戻った利益。
1585年に前田家が阿尾城を佐々成政と争ったとき、利益は阿尾城城代に任ぜられています。
この頃の年齢を勘定してみましょう。
33年生説→52歳
40年生説→45歳
41年生説→44歳
42年生説→43歳
43年生説→42歳
52年生説→33歳
55年生説→30歳

養父・利久の没年は1587年説と1583年説とがあります。
利益は阿尾の戦いで利家の家臣として素直に働いていた様子ですし、1590年の小田原の役(小田原征伐)には利家に従軍しているようなので、彼が前田家から出奔したのは1590年以降であろうと考えられます。
あの慶次郎が、お父ちゃんが死んでから7年以上も前田家の中で「我慢」できたとは思えないので、ここは87年説をとりたいところ。

というわけで、養父が没したときの年齢は
33年生説→54歳
40年生説→47歳
41年生説→46歳
42年生説→45歳
43年生説→44歳
52年生説→35歳
55年生説→32歳

で、この後、利家を騙くらかして水風呂に突っ込み、松風にうち跨って(別の説に、利家が乗ってきていた愛馬「谷風」をかっぱらって)、家族を置いて出奔、と。

このとき出奔について行かなかった嫡男・前田安太夫正虎は、利久の旧領2000石を引き継ぎました。
正虎は義理の従兄弟にあたる前田利長(利家の長子)、次いで前田利常(利家四男で、異母兄利長の養嗣子)に仕えます。
正虎は書家として、また前田家の事跡を書き残した「前田家之記(安太夫筆記)」の筆者として名を残しますが、後嗣がなく、死後家名は断絶したもよう。

なお、正虎以外の子供は以下の通り。

長女 花(華) 始め前田利長側室「お花の方」。後、有賀左京室。後、大聖寺藩士山本弥右衛門室。
二女 坂 北条主殿氏邦の室
三女 名前不明 長谷川三右衛門の室
四女 名前不明 平野弥右衛門の室
五女 佐野 富山藩士戸田弥五左衛門方経の室
この他に男児が1名いたとの説もあり。

家族と絶縁して(以後、妻は娶らず、子も成さず)出奔した利益は、暫くは京都あたりで温和しく(?)風雅な暮らしをしていた物と思われます。

前田利益が文禄・慶長の役(いわゆる「朝鮮出兵」、文禄元年(1592年)〜慶長3年(1598年))に参加したという記録は見当たりません。
また、前田利家も佐賀の名護屋城に留まり、渡海していません。

直江兼続と親交を結んだ利益が、穀蔵院こくぞういん飄戸斎ひょっとこさい名義で上杉景勝に仕えることになった(兼継の寄騎という扱い)のが1598年。
33年生説→65歳
40年生説→58歳
41年生説→57歳
42年生説→56歳
43年生説→55歳
52年生説→46歳
55年生説→43歳

この翌年(1599年4月27日)、義理の叔父・利家没(享年60とも61とも)。

慶長出羽合戦が起き、五騎三百兵で上杉軍の殿軍をつとめた「長谷堂城の戦い」があったのは1600年(関ヶ原の戦いと同年)。
33年生説→67歳
40年生説→60歳
41年生説→59歳
42年生説→58歳
43年生説→57歳
52年生説→48歳
55年生説→45歳

40年代以前の生まれだという説が正しいとするなら、
還暦過ぎの(下手すると古稀に近い)の老将が、皆朱の槍をぶん回して、敵陣に突っ込んで、当たるを幸いにむちゃくちゃに切りまくって、ついには大軍を壊走させた
ということになる!
(いや、中華の国にも老黄忠という恐ろしい人がいたぞ。そう考えると、あながちあり得なくはない……)

で、上杉の移封に従って米沢に移る際に「前田慶次道中日記」を書いたのが1601年。
そのまま米沢に暮らした説をとると、没年は1612年。
京に戻った、または義理の従弟の加賀藩主・前田利長の命で金沢に呼び戻された説だと1605年没ということになりまして。

1605年に死亡説ですと、それぞれ享年は
33年生説→72歳
40年生説→65歳
41年生説→64歳
42年生説→63歳
43年生説→62歳
52年生説→53歳
55年生説→50歳
といった具合。

1612年死亡説ですと、
33年生説→79歳
40年生説→72歳
41年生説→71歳
42年生説→70歳
43年生説→69歳
52年生説→60歳
55年生説→57歳
ということになります。
「莫逆の友」たちは一体何歳なのか?
奥村助右衛門永福(おくむら すけえもん ながとみ)
1541年(天文10年) - 1624年7月27日(寛永元年6月12日)
慶次郎41年生まれ説を採れば、同い年ということになる。
1567年の「荒子の城のこと」の時に荒子城代を務めている(このとき26歳)

直江 兼続(なおえ かねつぐ)
1560年(永禄3年) - 1620年1月23日(元和5年12月19日)
慶次郎が上杉家に仕えることになった1598年には38歳の計算。
慶次郎は41年生まれ説だと57歳なので、19歳年下の勘定。

石田 三成(いしだ みつなり)
1560年(永禄3年)−1600年11月6日(慶長5年10月1日)
兼継の親友。彼とはタメ年。
従って慶次郎41年生まれ説を採れば19歳年下の「餓鬼」。

結城 秀康(ゆうき ひでやす)
1574年3月1日(天正2年2月8日)−1607年6月2日(慶長12年閏4月8日)
徳川家康の次男。
双子で生まれた説あり。もう一方の子は生まれてすぐ「死んだ」ことにされた上、養子に出された永見 貞愛(ながみ さだちか)とされる。
当時、双子は「不吉(家が分裂する、など)」「畜生腹(動物は多胎で生まれることが多いので)」などと蔑まれていた。
彼が家康から嫌われていた理由の一端がそこにあるかも知れない。
関ヶ原の前哨戦である上杉討伐(「長谷堂城の戦い」)に出陣した1600年には26歳。
このとき、慶次郎は41年生まれ説で59歳。
33歳の年下となる。

追記。
芳春院(ほうしゅんいん) 俗名 前田まつ
1547年7月25日(天文16年7月9日) - 1617年8月17日(元和3年7月16日)
前田利家の母方の従妹(利家の母とまつの母が姉妹)にあたる。
1558年(永禄元)に利家に嫁す。このとき数え12歳、満年齢で数えれば11歳
翌59年、12歳で長女幸を、62年に15歳で長男利長を生む。
ちなみに、利家を37年生まれとすると、結婚した58年に彼は21歳(10歳違い)。
慶次郎41年生まれ説を採ると、6歳年下となる。