イヌもネコもハムスターもブタも、み〜んな祝福 スペイン: AFPBB News
スペインは17日、動物の守護聖人、聖アントニオを祭る「聖アントニオ祭」を迎えた。各地の教会にはペットに神の祝福を受けさせようという飼い主たちの長い行列ができた。
アントニオ(
アントニウス/
アンソニー)と言う名前の聖人は
少なくとも二人いて、
一人は「
大アントニオス」(250-356年)。
この人は
エジプトに生まれて、両親の死後に財産を総て貧者に分け与えると、荒野で苦行を始めたという方。
砂漠の中で獣に変化した悪魔達に責め立てられるも、
これをものともせずに、苦行に励んだという。
で、この方が町へ出て、説法をブツと、
沢山の人々が心打たれ、彼の元で修行を始めるようになる。
このコミュニティが「
修道院」の始まりだというので、
大アントニオスは「
修道士の父」とも呼ばれる。
んで「荒野で動物の姿をした悪魔に苦しめられるの図」が
多くの画家にインスピレーションを与えて、
『
聖アントニウスの誘惑』ッてなタイトルの絵が沢山描かれている。
もう一人が「
パドヴァのアントニオ」(1195-1231年)、
ポルトガルは
リスボンの貴族の出身で、本名は
フェルナンド・
マルティンス・デ・ブラォンという。
フェルナンドは両親から跡継ぎと期待されながら、これに反発。
初めは、リスボン郊外の聖
ヴィンセント・デ・フォーラ修道院に入り、聖書研究に専念。
後に
コインブラ修道院へ移って
司祭となり、
モロッコへの宣教へ向かう宣教師達の
後方支援をするようになる。
ところがモロッコへ
派遣された宣教師達が、その土地で捕縛され、
死刑にされたと知るや、学究生活を捨てて宣教活動を行うことを決意。
このとき、前出の「
大アントニウス」にならって「アントニウス(
ポルトガル語だと『アントニオ:Anto'nio』)」に改名する。
んで、意気揚々とモロッコへ向かうものの、現地に着いた途端、謎の高熱に倒れてしまう。
「こりゃ神様は私に宣教活動以外の仕事を与えようとしているに違いない」
と悟った彼は、船で出国。
嵐にあって
シチリアは
メッシーナに漂着。
メッシーナの
女子修道院で
体力を回復させる。
そして1221年、
フランシスコ修道会の総会に参加すべく、
ローマの北にある
アッシジへ。
ここで、アントニウスは「モンテパオロ」の修道院に配置されるが決まる。
個室を与えられるという厚遇を得たものの、
近くにあった洞穴に暮らして研究に励み、そこから修道院に通うという生活を始める。
司祭の身分でありながら、修道院でも進んで雑用をしたと言うから、
「大アントニウス」のような「修行生活」がしたかったのかも知れない。
ある時アントニオが説教を始めると、異教の人々に妨害されてしまう。
そこで彼は海に向かって説教を始める。
すると海の魚たちが集まり、水面に顔を出してこの説教に聞き入った。
これを見聞きした異教の人々は、感動して
改宗したという。
そんな噂を聞いたボンビッロと言う男が、アントニオを貶めようと策を練る。
男は三日も餌をやっていない
ラバを引いてきて、
「坊さん、あんたが通りの向こうに正餐式のパンを持って立って、
俺は反対側にラバの餌を置く。
あんたが正しければ、動物だってあんたの手から正餐に与ろうとするだろう」
男はラバが当然「ちっぽけな正餐式用のパン」なんかではなく、
「沢山の餌」に食い付くだろうと考えていた。
しかしラバは、アントニオに近づき、正餐式に与る信者のように
その前に跪いた。
ボンビッロは仲間を引き連れて改宗したという。
アントニオは各地を回って説教をするようになる。
1228年「
パドヴァ」に訪れると、彼の説法を聞こうと、近隣の村々からも人が集まった。
教会にに入りきらない人々のため、アントニオは広々とした草原に彼等を伴って行き、説教をしたという。
1231年、アントニオは「
水腫(ひどいむくみ)」を発症。
その年の6月13日、36年の生涯を閉じる。
現在、アントニオの亡骸を葬った場所には、彼の名を冠した
サンタントニオ(Sant'Antonio)聖堂が建てられている。
んで、聖アントニオ祭ですが、
多分
パドヴァの聖アントニオの説法に魚も動物も聞き入った
というところから派生したお祭りだと思われます。
ああ、前置きが長いこと!