♥ | 私見・真田十勇士という虚像が完成するに至った経緯の考察 New! |
| 真田十勇士という虚像が完成するに至った経緯の簡単且つ私的な考察。 十勇士簡易メンバー表(?)付属。(2015/11/20(Fri) 14:58)
|
♥ | 魏志倭人傳(原文と訓読文と訳文の対照) |
| 陳壽(陳寿)の「魏志倭人伝」の原文と書き下し文(訓読文)に、「今はこれが精一杯」な訳文を付する。 よって、論文なんかにコピペするのは非推奨。 精々、参考程度にしてください。 (2012/08/03(Fri) 20:27)
|
♥ | 魏志倭人傳(漢文訓読文) |
| 陳壽(陳寿)の『三国志』魏書東夷伝倭人条の書き下し文(訓読文)。 (2012/08/03(Fri) 20:14)
|
♥ | 魏志倭人傳(原文) |
| 陳壽(陳寿)による紀伝体の歴史書「三國志」に記載された、「後の日本と見られる東海の島国」に関する記述、日本での通称を「魏志倭人伝」という、その本文。 なお、この記述の正式な名前は「『三国志』魏書東夷伝倭人条」。 「三国志」の中の「魏の記録」の中にある、「東の方の異民族の記録」の中の「倭人の項目」であり、全文で2000余文字の短いものである。 この記述だけで邪馬台国(邪馬臺国)の場所を探ろうなんて、最初から無理な気が……うわなんだおまえやめくぁwせdrftgyふじこlp。 成立は3世紀末(280年-290年間)。 作者は陳寿。字は承祚(しょうそ)。233年-297年。巴西郡安漢の人。三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚。
このファイルは、改行無しの原文のみを掲載。 (2012/08/03(Fri) 20:11)
|
♥ | 真田家や仙石家は「外様だけど譜代格」、藤井松平伊賀守家は「十八松平だけど親藩じゃなくて譜代」、と云うお話。 |
| 表題の通り。とりあえず(徳川幕府における)fudaidaimyouとはなんぞや、という所から、代々の上田藩主の家系はどういう立場だったのかという辺りの、概要っぽいもの。(2012/06/12(Tue) 22:13)
|
♥ | 慶長二十年(1615)三月十日付け、真田信繁から小山田茂誠・之知宛の書状 |
| Web上にある『有名人の「辞世の句/最期の言葉」系のサイト』で「幸村の最期の言葉」として取り上げられることの多い 「さだめなき浮世にて候へ者、一日先は知らざる事、我々事などは浮世にあるものとは、おぼしめし候まじく候」(or「さだめなき浮世に候へ者、一日先は知らざる事我々事ばどは浮世にあるものとは、おぼしめし候まじく候」) の原文「さためなき浮世ニて候へ者、一日さきハ不知こと候、我々事なとハ浮世にあるものとハおほしめし候ましく候」が書かれている書状の写しと、そのいい加減な現代語訳。 (2009/10/30(Fri) 17:05)
|
♥ | 写真で見る「火縄銃の撃ち方」 |
| 真田鉄砲隊による火縄銃演舞の連続写真でみる、火縄銃の撃ち方。 ちなみにデモっている銃は「大筒」に分類される大型の銃なので、射撃後の反動がかなり大きい物と見受けられる。 (2009/10/30(Fri) 16:41)
|
♥ | 前田慶次郎利益の年齢に関する考察のようなもの |
| 天下無敵の「傾き者」(永遠の悪餓鬼)、穀蔵院飄戸斎・前田慶次郎は、歴史上の様々な出来事が起きた時点で一体何歳であったのか、についての適当な考察。 「長谷堂城の戦い(1600年)」において還暦過ぎの老将が、皆朱の槍をぶん回して、敵陣に突っ込んで、当たるを幸いにむちゃくちゃに切りまくって、ついには大軍を壊走させた可能性があるということが判って、ちょっと吃驚。 (2007/09/13(Thu) 14:39)
|
♥ | 真田伊豆守信之(信幸)の子供達に関する覚え書き |
| 上田藩→松代藩初代藩主・真田信之公の3人のご子息についてのメモ書き。
なお信之公そのものについて深くお知りになりたい向きには、こんな中途半端なメモより↓コッチの小説をお薦めします。 真田騒動―恩田木工 真田信之―弟・幸村をしのぐ器量を備えた男 >(2007/09/13(Thu) 14:03)
|