Encoding of this website is Japanese(Shift_JIS). Japanese fonts required to view this website.

ここは【お姫様倶楽部Petit】の備忘録的リンク集【Petitの本棚】です

お姫様倶楽部Petit本館
賑町笑劇場(素材)
資料文書
覚え書き
資料・史料書籍
男装麗人嗜好会
50枚の写真お題
感想をください同盟
時代小説分室
100の質問
蜀が好き同盟
三国志資料本
☆Web拍手送信☆
資料室トップ
paperboy&co.
▼資料其の一▼
フェアリーテール
お伽噺・昔話
児童文学・童話
神話・伝承
寓話
純文学
大衆文学
推理・探偵小説
その他小説
戯曲
文学論など
歴史・史料関連
その他文献

UPDATE:2016/08/21(Sun) 16:18

お姫様倶楽部Petit資料室 お姫様と幻想と創作関連の資料文書

大衆文学

ダゴン New!
原著名:Dagon
作者名:H. P. ラヴクラフト H.P.Lovecraft
翻訳者名:大堀竜太郎

窓に! 窓に!
(2016/08/21(Sun) 16:18)
小坂部姫
作者名:岡本綺堂

播州姫路に伝わるオサカベ姫伝説を元に描かれる、伝奇長編。

ある夕刻、吉田兼好の庵に美しい娘が訪ねる。娘の名は小坂部。兼好を訪れたのは、塩冶判官高貞の妻に対する恋情に悩む父・高師直のために、恋文の代筆を頼むためだった。
小坂部が携えてきた文を喜んだ師直は、娘の「思い人と結婚したい」という願いを聞き入れる。小坂部の思い人は、家臣の若侍・本庄采女だった。
しかし小坂部の兄・師冬は妹に有力者との結婚望んでおり、采女との結婚には反対だった。
件の恋文は塩冶の妻に届けられた。小坂部は返歌の内容が拒絶を意味していると察したが、師直にはその本意をくみ取れない。
小坂部が今一度兼好法師に相談しようと出掛けた道すがら、一行は『眇目の唐人』と呼ばれる奇妙な男と出会う。
唐人は「神のお告げにより、小坂部を訊ね来た」と云う。侍女たちに追い払われた唐人は、呪詛らしき言葉を唱えつつ姿を消す。
小坂部が留守にしている間、返歌の本意を侍従が師直に告げてしまった。
兼好法師の留守宅から戻った小坂部に、師直は「(恋を)思い切った証拠は一日か二日のうちによう判る」と告げる。
師直は部下達を招集し、将軍足利尊氏の館へ出仕した。塩冶判官を謀叛人と讒訴し、妻を奪おうと画策したのだ。
兄・師冬が塩冶討伐に反対して父に退けられたと聞き、小坂部も父を諌めようと努めるが、師直は聞く耳を持たない。
小坂部は本庄采女を伴って屋敷を出て行く。行き先は塩冶の屋敷。小坂部は塩冶判官の妻に次第を告げた。
その帰り道、またしても『眇目の唐人』が現れる。小坂部は不安を感じつつ、兄・師冬の元へ身を寄せる。小坂部に采女との結婚を諦めるよう説得する師冬。
小坂部が屋敷に戻ろうとしたとき、娘の裏切りを知り怒り狂った父の刺客が彼女を襲う。
そこに『眇目の唐人』が現れ、小坂部達を救い出す。
近隣の村が焼かれ、小坂部は父の所行を悲しみ、父の元へは戻らないと決心する。
師直の部下が小坂部を探し、捕らえようとする。小坂部は自ら懐剣を持って抵抗する。采女も奮戦したが倒れされる。小坂部は『眇目の唐人』の手引きで漸く落ち延びる。
小坂部が辿り着いたのは蝙蝠と梟が棲む姫山の城。『眇目の唐人』は小坂部に「あの天主閣がお身の棲家」と告げる。
さらに『眇目の唐人』は高師直・師冬親子の哀れな死を予言し、自身を「夜叉羅刹・阿修羅の呪いをもって、幸いを禍いとし、治世を乱世にする」存在であるという。そして小坂部を「いにしえの玉藻の前に匹敵する悪魔の徒党」と断じる。
小坂部が拒絶し「死んだ采女を生かして返せ」と云えば、眼前に采女の幻が現れる。
采女の蘇りの引き替えに仲間となれと迫る『眇目の唐人』。采女の幻もそれを勧める。
小坂部は云われるままに血盃をすすった。
その後、高師冬は討死、高師直は謀殺された。
時は流れ、江戸。姫路藩主となった松平忠明が江戸城へ登ると、将軍家光は彼に「天主閣を守り神として疎略にするな」と命じた。
代々の城主がこの守神を篤く奉ったが故に、徳川時代二百六十余年の太平が続いたという。
(2012/02/02(Thu) 17:31)
玉藻の前
作者名:岡本綺堂

伝奇物。

美しい少女藻(みくず)と、その幼なじみで烏帽子職人見習いの少年・千枝松。
毎夜父親の病平癒を願って清水詣をする藻だったが、ある夜、出掛けたきり戻らなかった。
千枝松と陶器師の老人が探しに行くと、妖しげな古塚の麓で眠る藻を見つける。藻は髑髏を枕に眠っていたのだった。
この出来事の後、藻の美しさは妖艶なまでに増した。これを知った関白忠道に召し出され、藻は宮仕えの身となる。
藻と離ればなれとなった千枝松が傷心の余り命を失いかけたところを救ったのは、陰陽博士安倍晴明が六代の孫の播磨守泰親。千枝松は泰親の弟子となり、陰陽道の修行を始める。
一方、藻は「玉藻の前」と呼ばれる女官となっていた。
玉藻の前の妖しい魅力のため、宮中では勢力争いが活発化し、刃傷沙汰や高僧の怪死などの変異が起きていた。
玉藻の前には魔性が取り憑いていたのだ。
敵味方に分かれた藻改め玉藻の前と、千枝松改め千枝太郎。千枝太郎は魔性の敵となった玉藻が、それでも忘れられずにいた。
陰陽師の調伏の祈祷と玉藻の前の神通力の闘いは、玉藻の前の勝利に終わるが、これは実は陰陽師側の作戦でもあった。
千枝太郎は玉藻の前の変化が古塚にあると気付き、その地に祭壇を築いて調伏祈祷を始めた。
祈祷は覿面。玉藻の前は雷鳴と供に姿を消す。
やがて那須篠原に白面金毛九尾の狐が現れ、人畜に害なすという報告が上がる。
その正体は玉藻の前。
陰陽師により調伏された玉藻の前は、不思議な形の石に変じた。
石となってなお、九尾の狐は周囲に呪いを振りまき、近づく獣も鳥も、そして人も死んでゆく。
石はやがて「殺生石」と呼ばれるようになった。
いまだ藻の面影が忘れられぬ千枝太郎は、殺生石を訊ねた。
千枝太郎が「藻よ、玉藻よ」と呼びかければ、石は美しい玉藻の前の姿に変じた。
玉藻は問う。
「お前はそれほどにわたしが恋しいか。人間を捨ててもわたしと一緒に棲みたいか」
千枝太郎が答える。
「おお、一緒に棲むところあれば、魔道へでも地獄へでもきっとゆく」
幾日か後、ひとりの若い旅人が殺生石を枕に倒れているのが見付かった。
旅人の顔には微笑があったという。
(2012/01/30(Mon) 19:31)
神州纐纈城
作家名:国枝史郎
618622byte(相当重いファイルなので、注意して開けてください)

武田信玄の寵臣・土屋庄三郎は、夜桜見物の折、怪しげな布売りに古代中国で人血で染めたという妖しい深紅の布「纐纈布」を売りつけられる。
その纐纈布に行方知れずの父・土屋庄八郎昌猛の名を幻視した庄三郎は、掟を破って国抜け。富士の本栖湖にあるという「水城」へ向かう。

以下、激しくネタバレな粗筋。

途中庄三郎は、三合目陶器師を名乗る賊と出会う。美しい面をしているが心根は残忍。道行く人を襲い殺しては、竈で蒸し焼きにしている。

陶器師の刃を避けた庄三郎は、富士の裾野隠れ住む上杉謙信の旧家臣・直江蔵人と出会う。蔵人世から見捨てられた病人達を治療しているのだ。

更に先を行けば、そこは樹海の奥に忽然と現れた「富士教団神秘境」だった。
教祖の光明優婆塞の人物に惹かれた庄三郎は、教団の幕屋に住み着く。

一方、庄三郎出奔を知った甲府では、信玄は高坂弾正の妾腹の子で十四歳という若さの「甚太郎」に庄三郎追跡の命を下す。
高坂甚太郎は鳥追いに化け、竹竿を背負って出立する。
武田家の割符を持った甚太郎は甲州を気ままに探索する。
やがて青木原に迷い込んだ彼は三合目陶器師に出会う。
竿を槍として使い、陶器師を翻弄した甚太郎は、彼から庄三郎の行方を聞き出し、本栖湖へ向かう。

甚太郎との戦いで自分の顔の浅ましさを悟った陶器師は、富士の人穴に隠れ住む面作師・月子の元へ向かう。
月子は裏家業として自分の過去を捨てたい者達に「造顔の術」を施していた。
元は北条内記という名の武士だった陶器師は、元の醜い顔を彼女に作り替えて貰っていたのだ。
北条内記の妻は、月子は「本当の悪人」を面の上に再現するため、その顔を持つ物に出会うことを望んでいた。
陶器師は纐纈城の城主こそ本当の悪人と言う。
月子は纐纈城の城主に合うことを願いつつ、陶器師を改心させようと「富士教団」へ行くよう促す。

そのころ、甚太郎は「水城」の手の物に騙され「水城」すなわち「纐纈城」に捕らわれてしまう。

纐纈城では拉致してきた人々を「賓客」として歓待し、太らせていた。やがてくじが引かれ、選ばれた「賓客」が地下の工場へ運ばれる。彼等の血が「纐纈布」を染める染料となるのだ。

纐纈城の城主は、鉛色の中将の仮面と、人血で染めた纐纈布の鎧直垂をまとった謎の人物だった。彼は奇病「奔馬性癩患」に犯されており、変容した姿を仮面と纐纈布で隠していた。

「奔馬性癩患」とは強力な感染力を持つ伝染病で、患者に触れただけで感染し、病状は一瞬にして進行。事に纐纈城の城主の素顔を見た物は、その恐ろしさも相まって、即死するという。

光明優婆塞は本栖湖の湖畔にたたずみ、その対岸にある「纐纈城」に呼びかける。
纐纈城の城主は彼の兄だった。
武に秀でていたが容姿の醜い兄は、己の美しい妻が弟・主水と密通しているのではないかと疑い、妻と一子・庄三郎を残して出奔したのだ。
そう、光明優婆塞は庄三郎の叔父・土屋主水昌季。纐纈城城主は父・土屋庄八郎昌猛なのだ。

自分の力では信者も兄も救えぬと思い極めた光明優婆塞は、教団から姿を消す。
象徴を失った教団は混乱し、「纐纈布」を所持していた庄三郎を敵の間者と思いこんで集団暴行。半死半生の彼を船に乗せ、本栖湖へ流してしまう。

他方、越後は春日山。
上杉謙信の元に塚原卜伝が訪れ、秘薬「五臓丸」を持ち込む。万病に効く薬であるが、その原料は生きた人間の五臓。卜伝はこの「悪魔の薬」は越後流の製造法と見て、上杉縁の者が作っているに違いないとして、謙信の元を訪れたのだった。

謙信の旧臣のうちより直江蔵人に目星を付けた卜伝は、彼を捜して富士へ向かう。
はたして、蔵人はまだ息のある不治の病人から五臓を取り出し、五臓丸を製造していた。

その頃纐纈城では、城主が甲府から来た賓客・甚太郎の話、そして彼の口から出た土屋庄三郎の名を聞き、望郷の念に駆られていた。

纐纈城主はその念押さえきれず、富士教団の船に乗った半死半生の者をその顔も見ずに「賓客」と遇するよう家臣に命ずると、城の外へ出た。

「甲府へ」
真っ赤な「纐纈布」を纏った纐纈城主は、炎の柱のような風体で
「故郷の人。……祝福あれ!」
行く先々に「奔馬性癩患」をまき散らしながら、
「なつかしい故郷! 恋しい甲府! 俺の祝福を受けてくれ!」
躑躅ヶ崎の城下を進む。

人穴では月子が面を作っている。そこへふらりと現れたのは、纐纈城を脱出した高坂甚太郎。美しい月子と過ごした甚太郎は、庄三郎追跡の主命を放棄して、己も出奔しようと、人穴を出て行く。入れ替わりにやって来たのは、伴源之丞という若侍と、園という美女。北条内記という女敵から逃れるため、美しい顔を醜く変えて欲しいと願いった。月子の施術によって、醜い老人・老女の姿となった二人は、甲府へ向かった。
甲府は「奔馬性癩患」により混乱に陥っていた。
そこに現れたのは、直江蔵人と塚原卜伝。そして三合目陶器師。
切り結ぶ卜伝と陶器師……。

放浪乞食となった光明優婆塞が「奔馬性癩患」に罹った人々を癒し、騒ぎは収束へ向かっていた。

そして纐纈城主は、荒れた小さな宮の中に横たわり、己の半生を振り返っていた……。
(未完)

初出:「苦楽」大正14年1月〜大正15年10月連載(2010/11/25(Thu) 20:12)
赤坂城の謀略
作家名:国枝 史郎

鎌倉幕府からは「悪党」と蔑まれ、北朝側から「朝敵」とされ、子孫がその不名誉を晴らしていこうは「名軍師」「日本の孔明/張良」などと称され、明治の頃には「忠臣の鑑」と呼ばれた、大楠公こと楠木正成を主人公とする短編時代小説。

1331年、後醍醐天皇挙兵に呼応した楠木正成は、赤坂城で挙兵する。
これを知った幕府は討伐軍を差し向けた。
守るは手勢僅か500の正成。
攻めるは20万の鎌倉幕府軍。
落城・自害と見せかけて脱出した正成は、山中で後醍醐天皇の皇子・護良親王を保護。
正成は挙兵の地・赤坂城の奪還を堅く心に誓う。
翌1332年。
兵力を立て直した正成は、2千余兵で摂津・天王寺を押さえる。
攻め来る幕府軍は700余。
数の差を持って一気に攻めようという部下の進言を退けた正成が用いたのは「空城の計(応用編)」とも言える策。
正成は夜明け前に本陣を引き払い、2千の兵を全撤退させる。
そうとは知らない幕府方の武将・宇都宮公綱が夜明けと同時に攻め込むと、天王寺はもぬけの殻。
公綱は警戒しつつ天王寺に陣を張った。
夜が訪れると、周囲の山々には数えきれぬたいまつの明かりが揺れ始める。
かねて正成の奇策を知る公綱は、正成が「引いたと見せて、新手を率いて攻め来るつもり」と見、警戒を強める。
だが正成軍が動く気配はない。
翌日も、その翌日も、何万もの篝火が山中に揺れたつ。
公綱の軍勢は正成の総攻撃がいつになるのか知れず、不眠不休で身構え続けたが、一向に攻撃はない。
とうとう疲労困憊極まった公綱はついに撤退する。
敵方にも見方にも一兵の死者負傷者を出さずして、戦いは終結したのだった。

初出:「日の出」1935(昭和10)年6月
底本:「時代小説を読む〈城之巻〉」大陸書房1991(平成3)年1月10日初版
(2008/06/24(Tue) 14:30)
夜長姫と耳男
作家名:坂口安吾
兎のように上に長い耳を持つ耳男は、師匠の名代で「夜長の長者」の仕事を請け負うことになった。
長者には一粒種の娘「夜長姫」がいた。美しい姫の顔を見つめるうち、耳男の心には不可解な混乱が生まれた。
長者はヒメの守り本尊を彫る仕事を何人かに競わせ、最も優れた者には褒美として美しい機織り奴隷の娘エナコをやると言う。
耳男はエナコを哀れとは思うが貰う気はまるでない。それがエナコの疳に障ったのか、彼女は唐突に耳男の大きな耳を切り落とした。
片耳を落とされたことを「虫に咬まれたこと」と言う耳男に対し、夜長姫は無邪気で明るい「虫も殺さぬ」童女の笑顔を浮かべたまま、エナコに命じてもう片方を切り落とさせた。
夜長姫の笑顔に心を奪われてしまったことにおそれを感じた耳男は、仏像ではなくモノノケの像を造ることに魂を注ぎ込んだ。
三年かけてついに完成させたモノノケの像は、「耳の長い何ものかの顔」をした「ヒメの笑顔を押し返すだけの力のこもった怖ろしい物」で……。

初出:「新潮 第四九巻第六号」
1952(昭和27)年6月1日発行
(2006/10/16(Mon) 13:49)


- LinkVisorSP Thanks KentWeb -