日本合戦譚 四条畷の戦 | |
作家名:菊池寛(池島信平の下書きに基づくとも) 戦国時代から明治まで、歴史の転換点となった日本の代表的な合戦を活写した歴史随想集「日本合戦譚」収録の一遍。 四條畷の戦い(しじょうなわてのたたかい)は、南北朝時代の1348年(正平3年/貞和4年)1月5日、河内国北條(現在の大阪府四條畷市・大東市)における、南朝方の楠木正行と足利尊氏の腹心である高師直との間の戦い。 楠木正行は本拠地である河内国南部から、摂津国南部の住吉・天王寺周辺までゲリラ的に出没。足利方を脅かしていた。 1347年(正平2年/貞和3年)9月、楠木軍は藤井寺近辺で細川顕氏を破り、11月には住吉付近で山名時氏を破る。 足利方は本格的な南朝攻撃を決意。 1348年1月に高師直を大将とする大軍を編成して、北上する楠木軍と四條畷に対峙した。 楠木軍は足利方の圧倒的な兵力の前に敗北。正行は弟の正時と刺し違えて自決。 勢いに乗った高師直は、南朝の本拠吉野(奈良県吉野郡吉野町)に攻め入り陥落させる。 後村上天皇はじめ南朝は賀名生(同県五條市)に逃れた。 (2009/12/29(Tue) 17:43) | |
日本合戦譚 島原の乱 | |
作家名:菊池寛(池島信平の下書きに基づくとも) 戦国時代から明治まで、歴史の転換点となった日本の代表的な合戦を活写した歴史随想集「日本合戦譚」収録の一遍。 島原の乱は、寛永14年10月25日(1637年12月11日)に勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結した「キリシタン一揆」。島原・天草一揆、島原・天草の乱とも呼ばれる。 一般的に宗教弾圧による戦争と認識されているが、実質は、島原藩・唐津藩による圧政に苦しんだ農民などの諸領民による反乱であった。 年貢の過酷な取り立てや、切支丹への残忍な拷問・処刑に耐えかねた島原の領民は、旧有馬氏の家臣の下に組織化。密かに反乱計画を立てていた。同じ頃、肥後天草でも、大量に発生した浪人を中心に一揆が組織されていた。 両一揆の首謀者たちは湯島(談合島)において会談を行う。 そしてキリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた当時16歳の少年・天草四郎(益田四郎時貞)を一揆軍の総大将に立てて、決起することを決定。 寛永14年10月25日(1637年12月11日)、有馬村のキリシタンが中心となって代官・林兵左衛門を殺害。ここに島原の乱が勃発する。 島原藩は直ちに討伐軍を繰り出し一揆軍を迎撃するが敗走。 この戦闘に呼応して、数日後に肥後天草でも一揆が蜂起。11月14日に富岡城代を討ち取った。 一揆軍は唐津藩兵が篭る富岡城を攻撃。落城寸前まで追い詰めるも、九州諸藩から討伐軍に背後を突かれることを嫌って撤退。 一揆勢は島原半島に移動し原城址に篭城。ここで合流した島原と天草の一揆勢は37,000人程(27,000人との異説有)。 原城を包囲した討伐軍は12月10日、20日に総攻撃を行うが敗走。 翌年1月1日(1638年2月14日)に再度総攻撃を行うが失敗。死傷者4,000人以上の損害を出す。 しかし増援を得た討伐軍は12万以上の軍勢に。原城の兵糧が少ないと見ると、兵糧攻めに作戦を切り替える。 討伐軍は2月28日に総攻撃を決定。鍋島藩勢が予定の前日に総攻撃を開始する。 この総攻撃で原城は落城。天草四郎は討ち取られ、乱は鎮圧された。 幕府軍の攻撃とその後の処刑によって一揆側の死者は37,000人(つまり全滅)。 13万近くを動員した幕府討伐軍側は、一説に8,135人の死者を出したという。 (2009/12/29(Tue) 17:37) | |
日本合戦譚 鳥羽伏見の戦 | |
作家名:菊池寛(池島信平の下書きに基づくとも) 戦国時代から明治まで、歴史の転換点となった日本の代表的な合戦を活写した歴史随想集「日本合戦譚」収録の一遍。 鳥羽・伏見の戦い(慶応4年1月3日-6日(1868年1月27日-30日))は、京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)で行われた戦闘。戊辰戦争の緒戦となった。 慶応3年末に発せられた王政復古の大号令により、前将軍・徳川慶喜に対し辞官納地が命ぜられた。 慶喜は新政府(明治政府)に恭順の意思を示すため、12月13日、京都の二条城を出て大坂城へ退去するも、その後、政府への連絡が途絶える。 12月25日(1868年1月19日)、薩摩藩が江戸市街で挑発的な破壊工作を行うと、慶喜の周囲で「討薩」を望む声が高まり、慶喜は薩摩征伐を名目に事実上京都封鎖を目的とした出兵を開始。幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。 慶応4年正月3日(1868年1月27日)夕方、下鳥羽付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と旧幕府軍戸の間に軍事的衝突が起こる。鳥羽での銃声が聞こえると伏見でも衝突が起き、こうして戦端が開かれることとなった。 5日、明治天皇が仁和寺宮嘉彰親王に錦旗(錦の御旗)を与えた。(岩倉具視による偽造説も)こうして新政府軍は「官軍」となる。 旧幕府方は立て直しを図ろうと淀城に行くが、淀藩は入城を拒否。仕方なく淀千両松に布陣し、政府軍を迎撃した幕府軍だが、惨敗を喫する。 さらに津藩が新政府側へ寝返るなどしたため、戦意を喪失した旧幕府軍は総崩れとなる。 7日に慶喜に対して追討令が出た報を聞くと、大阪城にいた慶喜は密かに城を脱し、8日には開陽丸で江戸に退却した。 政府軍の砲兵力を見せつけられ、また総大将が退却したことから、多くの藩が旧幕府軍を見限った。 旧幕府方は当初15,000人の兵力を擁しながら、5,000人の新政府軍に敗れたのだった。 (2009/12/29(Tue) 16:31) |
陵墓からは60歳前後とみられる男性の遺骨が見つかり、専門家による暫定的な鑑定結果によると、60代で死亡した曹操本人のものだという。曹操の陵墓の所在地をめぐっては諸説あり、これまで特定されていなかった。今回の発見で、曹操に関する謎が解明されるのではと期待されている。
27日付中国新聞社電によると、河南省安陽市安陽県の安豊郷西高穴村でこのほど出土した1群の文字をしるした石牌に、「魏武王」などの銘文が刻まれていることが確認された。
「魏武王」は三国時代に活躍した曹操(155−220年)を指す。専門家によると、出土した石牌の文字はその場にある墓に葬られた人物を特定するための「カギ」となる。中国では各メディアが一斉に「曹操の墓を発見か」などと報じた。
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