[日本史関連] | 譜代大名126家 | | 譜代大名126家 (晋遊舎新書 S07)榎本 秋 (著) 出版社: 晋遊舎 (2012/6/30)
名門エリート大名の野望と挫折! 金よりも出世を選んだ 徳川子飼いの人生はバラ色なのか?
初代・徳川家康が戦国武将だった頃から、ともに戦野を駆け巡り、御家の天下統一に貢献した子飼い武将、「譜代」大名。 幕府が開かれると、日本全国の要地に配置され、幕政の中枢を担い、歴代将軍を強力にバックアップし続けた。 奏者番、寺社奉行見習、大坂城代、京都所司代と譜代大名の出世コースを順調に歩み、幕枢での権力を一手に握る――それが譜代大名の生きる道。 (2012/06/11(Mon) 13:42) |
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譜代大名の定義- 徳川将軍家により取り立てられた大名のうち、親藩及び、外様大名と、その支藩(分家)を除いたもの。
- 関ヶ原の戦い以前より、徳川氏に臣従して取り立てられた大名。
- 幕府の要職に就任する資格のある大名。
旗本が加増され大名となった場合や、陪臣出身の堀田氏・稲葉氏・柳沢氏・摂津有馬氏有馬氏倫系のように、幕府によって新たに取り立てられ大名になった場合は1の定義にあてはまり、譜代大名となる。
一方で外様大名家からの分家や、立花宗茂・新庄直頼のように、改易された外様大名が再興した場合は外様となる。
家康の男系子孫の建てた家は基本的に親藩とされ、譜代とは呼ばれない。
また本来外様大名である家も、血縁関係や幕府への功績を考慮されて譜代扱いとなることもある。
これを便宜上「願い譜代」「譜代各」「準譜代」など呼んでいる。
真田家の場合昌幸パパは徳川家には従属していない。
パパに言わせれば、真田は豊臣家の家臣、徳川も同じ豊臣家臣。
真田は徳川の「与力(大大名に加勢するために付属する小大名や武将)」であり、
同じ大名として言わば「同格」。
(だから、倅の嫁に格下である陪臣・本田忠勝の娘なんぞもらえぬ!……とごねたので、稲姫は「家康の娘」って事にされて嫁いできた)
ということで、1には当てはまらず、
当然旗本(直臣だけど禄高が一万石以下)でも陪臣(家来の家来)でもないので3にも当てはまらず。
信之兄さんが小松姫をお嫁にもらって「徳川に出仕」したのは、確かに関ヶ原より前ということにはなるけれど、
当時の真田家当主はあくまで昌幸。
その昌幸パパが関ヶ原の時にに裏切っちゃった(第二次上田合戦)ので2もアウト。
というわけで真田家は微妙に外様。
だけど信之の妻である小松姫が「家康の
養女」なので、「御譜代に準ずる」という扱いになるわけだね。
仙石家の場合藩祖権兵衛秀久は元々は秀吉家臣で徳川家には従属していない(そう言う意味では徳川とは「同格」といえた)ので1には当てはまらず。
秀吉没後に徳川方に接近、関ヶ原では徳川方に付いたものの、これをして臣下になったと言うには微妙。
ちなみに上田城で足止め喰らった秀忠隊に随行してたんだけどね。
んで、秀忠の遅参に怒りまくっていた家康に精一杯謝り倒したんで、秀忠に大層感謝されて、重用されるようになった。
そう言う流れもあって「豊臣恩顧の外様」だけど、特に「譜代格」で扱われたらしい。
ただし、譜代格扱いはゴンベェの倅の忠政の代までで、
孫の政俊の頃には他の外様と同様に扱われたそうな。
松平(藤井)家の場合藤井松平家は、家康のひいひいひいおじいちゃんである松平長親の五男・利長を祖としている。
(ちなみに家康は長男の信忠の家系)
つまり、「家康の親戚筋」ではあるけれど、「家康の男系子孫の家系」ではないので、
十八松平と呼ばれる名門だけれども「親藩」ではなく「譜代」ということになる。
藤井松平家は四代目の頃に宗家「松平山城守家」と傍流の「松平伊賀守家」とに別れる。
三代目の信吉の長男・忠国(四代目)が宗家を継ぎ、
次男・忠晴が三代将軍・家光の頃に取り立てられて、2万5000石の大名となった。
そして、
忠国の系統(宗家)が代々「山城守」の武官名を名乗ったので「松平山城守家」、
忠晴の系統が代々「伊賀守」を名乗ったので「松平伊賀守家」と呼ばれるようになった。
仙石氏の後に上田藩主となったのは、「松平伊賀守家」系統の松平忠周。
側用人、京都所司代を歴任し、八代様(徳川吉宗)の頃には老中までご出世。
「松平伊賀守家」はご先祖様が「譜代大名」であり、且つ
藩粗・忠晴が「旗本が加増され大名となった」に当てはまるので、
1に該当し、譜代大名ということになる。
「願い譜代」or「御譜代に準ずる大名」外様大名の中で、幕閣において長年の功績のある大名を始めとして、主に血縁関係により譜代大名に準ずる家格の大名をいう。
「譜代格」・「準譜代大名」という場合もある。
親藩江戸時代の藩の分類の一つで、徳川家康の男系男子・子孫が始祖となっている藩を指す。
特に、徳川姓を名乗った御三家・御三卿の当主は家康の男系男子・子孫に限られ、将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った。
その他の家は松平姓を名乗った。
藤井松平家松平長親の五男松平利長を祖とする松平氏の庶流。十八松平のひとつ。
十八松平松平氏の一族のうちで、徳川家康の時代までに分家したルーツを持つ松平家の俗称。