上田公園史
明治七年、政府は全国の城の民間払い下げを布告しました。
上田城は現存した三櫓のうち西櫓一棟を残したのみで、櫓二棟と一七五〇本の立ち木も個々に払い下げられました。
将来、本丸が変貌するのを恐れた丸山平八郎氏は、老杉数本を残しただけの本丸付近を一括して買い取り、後世に残す為、先ず、各種の植樹をして、誰でも自由に出入りして憩える庶民の遊園地に変えました。
三百余年の武家の城郭が庶民の遊園地に生まれ変わったことは、まさに画期的であり民間の公園の始まりでもあります。
その後、明治十二年と二十六年の二度に分けて本丸は丸山氏から神社に寄付され、それ以来、公園として神社が守り管理してきました。
大正十四年、市の懇望により本丸一帯は神社から上田市へ永久に公園としての条件で無償寄付され、これにより民による公園は、五十年で幕を閉じました。
しかし、上田の人々は親子数代にわたり公園の恩恵に浴してきました。
本丸を自費で守り、庶民大衆に数々の思い出を作り、今後も作り続けていくであろう上田公園、その基礎を築いた丸山氏こそは、上田市民のための公園設立の一番の功労者といえましょう。
眞田神社
(読みやすいように適宜改行を追加)
丸山平八郎
養蚕・生糸業者の富農。
廃藩置県で
廃城となり民間払い下げになった
上田城本丸周辺の土地を買い取る。
明治12年(1879)、松平神社(現真田神社)創建にあたり、本丸南側の土地を神社用として寄付。
明治26年(1893)残りの土地を遊園地用として寄付。
現在の
上田城址公園は、丸山平八郎氏の尽力があってのたまもの。
1874年(明治7年) 廃藩置県により廃城となっていた上田城の土地、建物は民間へ払い下げられる。
(このとき、土地のかなりの部分を買い取ったのが、前出の丸山平八郎氏)
本丸に7棟あった櫓は、一棟(西櫓)を残して解体、売却された。
このうち二棟は上田市内の遊郭(緑ヶ丘新屋地区の「上田遊郭」の金秋楼、万豊楼)に払い下げられ、解体移築されて一つの建物として使用された。
昭和16年(1941年)に
目黒雅叙園が買い取ったが市民の運動によって買い戻される。
昭和18年(1943年)から昭和24年(1949年)にかけて、本丸の東
虎口の現在の地へ再移築された(南櫓.北櫓)。
平成6年(1994年)古写真を基に南櫓と北櫓の間を結ぶ東虎口
櫓門と袖塀が復元された。