祢津幸直
真田信幸の重臣、乳兄弟。
官名が資料によって式部だったり助右衛門尉だったり助衛門尉だったり志摩守だったりするんだけど……。
出世して変わった……んだろうと。
(助右衛門尉と助衛門尉は多分同じ官名の表記違いだろうし)
お爺さんの祢津元直が諏訪大社大祝である諏訪頼重(武田信玄の側室「諏訪御寮人」のお父さん。つまり勝頼の母方のお祖父さん)と縁戚関係にあり、
その縁で武田信虎(信玄のお父さん)が信濃を攻めたときに所領を安堵されたという。
(攻められたけど投降して家臣になった、説もあり)
似たような理由で
矢沢頼綱も所領安堵になっている。
(ここで生き残らせちゃったセイで、武田は後々、他の信濃衆と一緒に砥石城に籠った頼綱に痛い目を喰うんだが、それはまた別の話、と)
で、
元直の三男の祢津信忠の、そのまた三男である幸直は、
頼綱の子の
頼康の娘を妻とした。
矢沢頼綱は真田幸隆の弟で、
幸隆の三男が昌幸で、
昌幸の長男が信幸、
ということで、
信幸にとって根津式部は「義理のまたいとこ」にあたる、と。
小助の部屋:
http://koskan.nobody.jp/┗滋野一党/祢津滋野氏:
http://koskan.nobody.jp/sanke_nedu.html祢津幸直は矢沢頼康の娘婿。
祢津幸直は真田氏の親族衆として矢沢頼綱と行動をともにしている。
天正10年(1582年)以降徳川氏についた真田氏は、北條氏邦の大軍により沼田領の諸城を次々と攻められており、これに対して城代矢沢頼綱ほか、矢沢頼康の娘婿祢津幸直、北能登守、金子綱重、恩田能定らの沼田衆が善戦し、3日にわたる激戦の後に、北條勢は兵を引いている。
天正17年(1589年)11月、真田昌幸家臣団の知行宛行いで、岩下郷と田沢郷50貫とある。
祢津幸直の長男祢津幸豊は沼田真田家臣として名が残り、祢津幸直の次男祢津直方は松代真田家臣として名が残っている。