天正11(1583)年:真田昌幸公により築城。
天正13(1585)年:第一次上田合戦。2千の兵力で7千余の徳川軍を迎え撃ち、撃退に成功する。
慶長5(1600)年:第二次上田合戦。昌幸公・信繁(幸村)公親子が、約2千の兵力で籠城。
徳川秀忠公率いる東軍3万8千を迎え撃ち、守り抜く。
関ヶ原の本戦で西軍が敗退したため、昌幸公・信繁公は紀州九度山に配流。
城は徳川方によって破却される。
上田領は昌幸公嫡男の信之公が嗣ぐ。
慶長16(1611)年:昌幸公、九度山にて没。享年65(67とも)
慶長19(1614)年:大阪冬の陣。
元和元(1615)年:大阪夏の陣。信繁公没。享年49(諸説有)
江戸幕府「武家諸法度」の制定を持って、城普請の制限をする。
上田城の再建は許可されず、堀・塀・石垣などの修復に着手するに留まる。
信之公は三の丸に藩主館(現・上田高校)を建設し、藩政を執り行う。
元和2(1616)年:徳川家康公没。
元和8(1622)年:真田家が松代に移封。小諸から仙石忠政公が入城。
寛永3(1626)年:忠政公、幕府よりの許可を得て城の修復を開始。
寛永5(1628)年:忠政公、没。政俊公嗣ぐ。城修復中断。
寛永8(1631)年:千曲川洪水。
寛永18(1641)年:千石家、城修復(本丸石垣他)。
万治元(1658)年:真田信之公、松代にて没。享年93。
貞亨3(1686)年:千石家、城修復(石垣修復、煙硝蔵建設他)。
元禄15(1702)年:千石家、城修復(二の丸石垣他)。
宝永3(1706)年:仙石家が但馬国出石へ移封。同地より松平忠周公が入城。
享保15(1730)年:上田大火。藩主館類焼。
享保17(1732)年:千曲川洪水。尼ヶ淵の崖が崩壊。護岸用の石垣普請。
嘉永元(1848)年:前年の善光寺地震による被害箇所を修復。
安政3(1856)年:安政地震による被害箇所を修復。
明治4(1871)年:廃藩置県により城郭・城地が明治新政府に接収される。
明治7(1874)年:土地、建物が民間へ払い下げられる。
昭和9(1934)年:本丸と二の丸の大部分が国の史跡に指定される。
昭和17(1942)年:市民運動により、売却されていた櫓2棟が買い戻される。
昭和24(1949)年:買い戻した櫓を移築復元。
平成6(1994)年:東虎口櫓門と袖塀を復元。