高村 光太郎(たかむら こうたろう、1883年(明治16年)3月13日 - 1956年(昭和31年)4月2日))
本名は光太郎と書いて「みつたろう」と読む。
1883年(明治16年)に彫刻家の高村光雲の長男として生まれる。
練塀小学校(現在の台東区立平成小学校)に入学。
1896年(明治29年)3月、下谷高等小学校卒業。
同年4月、共立美術学館予備科に学期の途中から入学。
1897年(明治30年)8月、共立美術学館予備科卒業。
1897年(明治30年)9月、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)彫刻科に入学。
1902年(明治35年)に彫刻科を卒業。研究科に進むが、1905年(明治38年)に西洋画科に移った。
1906年(明治39年)より留学に出て、ニューヨークに1年間、その後ロンドンに1年間、パリに9ヶ月滞在し、1909年(明治42年)に帰国。
1912年(明治45年)、駒込にアトリエを建てる。
1914年(大正3年)に詩集『道程』を出版。
長沼智恵子と同棲を始める(事実上の結婚)。
1929年(昭和4年)に智恵子の実家が破産。
智恵子は健康状態が悪くなり、のちに統合失調症を発病。
1933年(昭和8年)8月23日に智恵子と入籍。
1935年(昭和10年)2月、智恵子入院。
1938年(昭和13年)10月5日、智恵子死去。
1941年(昭和16年)詩集『智恵子抄』出版。
1941年(昭和16年)12月8日 真珠湾攻撃。日米開戦。
12月10日 詩「十二月八日」執筆。「婦人朝日」昭和17年1月号掲載。
(後、詩集『大いなる日に』収録)
十二月八日
記憶せよ、十二月八日
この日世界の歴史あらたまる。
アングロ サクソンの主権、
この日東亜の陸と海とに否定さる。
否定するものは我等ジヤパン、
眇たる東海の国にして、
また神の国たる日本なり。
そを治しろしめたまふ明津御神なり
世界の富を壟断するもの、
強豪米英一族の力、
われらの国において否定さる。
われらの否定は義による。
東亜を東亜にかへせといふのみ。
彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。
われらまさに其の爪牙を摧かんとす。
われら自ら力を養いてひとたび起つ。
老若男女みな兵なり。
大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。
世界の歴史を両断する。
十二月八日を記憶せよ。
(昭和16年12月10日執筆、初出「婦人朝日」昭和17年1月号、詩集『大いなる日に』収録)」(昭和16年12月10日執筆、初出「婦人朝日」昭和17年1月号、詩集『大いなる日に』収録)」
1945年(昭和20年)4月13日、空襲によりアトリエ炎上。
5月、岩手県花巻の宮沢清六(宮沢賢治実弟)方(賢治実家)に疎開。
8月10日、花巻空襲。
8月15日、玉音放送により、日本の降伏が国民に公表される(終戦)。
10月、花巻郊外の稗貫郡太田村山口に小屋を建て、転居。
戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことへの自省の念から、7年間独居農耕自炊の生活に入る。
1952年(昭和27年)花巻の小屋を出て東京都中野区桃園町のアトリエに転居。
1956年(昭和31年)4月2日3時40分、自宅アトリエにて肺結核のために死去。享年73。
命日は
連翹忌と呼ばれている。