全漢字ルビ振り変換
https://cactus-tomoyuki-web-tool.com/all_ruby_exchangerというのがTwitterのtlに流れてきたので、チョットお試し。
(制作者:友幸@
cactus_tomoyukiさん)
テストに使用した文章は以下の物
充實した文章
田山録弥
私は思ふ、調子の惡い文章は書いても、無駄の多い文章は書き度くない、と。調子といふものを庇ふと、兎角無意味な文字を使ひたくなる。無意味の文字を使ふと、何うも感じが空疎になつて困る。ゴンクールは勉めて文法を排し、アカデミイ派の文章の整一を蛇蝎のごとく憎んださうだが、私も何うか名文は書きたくない、充實した文章を書きたいと心懸けて居る。それと言ふのも、自分の文章がよく調子に捉へられたり、型にはまつて了つたりするのを豫ねて知つてゐるからであらう。
底本:「定本 花袋全集 第十五巻」臨川書店
1994(平成6)年6月10日復刻版発行
底本の親本:「定本 花袋全集 第十五巻」内外書籍
1937(昭和12)年1月18日初版発行
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:きゅうり
2020年4月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
※元のテキストデータにはルビの設定がありません。
で。
Web小説投稿用(いわゆる「青空文庫形式」)の出力はこちら。
※長いから折りたたむ。
|充《たかし》|實《みのる》した|文章《ぶんしょう》
|田山《たやま》|録《ろく》|弥《わたる》
|私《わたし》は|思《おも》ふ、|調子《ちょうし》の惡い|文章《ぶんしょう》は|書《か》いても、|無駄《むだ》の|多《おお》い|文章《ぶんしょう》は|書《か》き|度《たび》くない、と。|調子《ちょうし》といふものを|庇《ひさし》ふと、|兎角《とかく》|無意味《むいみ》な|文字《もじ》を|使《し》ひたくなる。|無意味《むいみ》の|文字《もじ》を|使《し》ふと、|何《なに》うも|感《かん》じが|空疎《くうそ》になつて|困《こま》る。ゴンクールは|勉《つと》めて|文法《ぶんぽう》を|排《はい》し、アカデミイ|派《は》の|文章《ぶんしょう》の|整一《せいいち》を|蛇蝎《だかつ》のごとく|憎《にく》んださうだが、|私《わたし》も|何《なに》うか|名文《めいぶん》は|書《か》きたくない、|充《たかし》|實《みのる》した|文章《ぶんしょう》を|書《か》きたいと|心《こころ》|懸《か》けて|居《い》る。それと|言《げん》ふのも、|自分《じぶん》の|文章《ぶんしょう》がよく|調子《ちょうし》に捉へられたり、|型《かた》にはまつて|了《りょう》つたりするのを豫ねて|知《ち》つてゐるからであらう。
HTMLマークアップの出力はこちら。
※これも長いので折りたたむ。
<ruby><rb>充</rb><rt>たかし</rt></ruby><ruby><rb>實</rb><rt>みのる</rt></ruby>した<ruby><rb>文章</rb><rt>ぶんしょう</rt></ruby><br>
<ruby><rb>田山</rb><rt>たやま</rt></ruby><ruby><rb>録</rb><rt>ろく</rt></ruby><ruby><rb>弥</rb><rt>わたる</rt></ruby><br>
<br>
<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>は<ruby><rb>思</rb><rt>おも</rt></ruby>ふ、<ruby><rb>調子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>の惡い<ruby><rb>文章</rb><rt>ぶんしょう</rt></ruby>は<ruby><rb>書</rb><rt>か</rt></ruby>いても、<ruby><rb>無駄</rb><rt>むだ</rt></ruby>の<ruby><rb>多</rb><rt>おお</rt></ruby>い<ruby><rb>文章</rb><rt>ぶんしょう</rt></ruby>は<ruby><rb>書</rb><rt>か</rt></ruby>き<ruby><rb>度</rb><rt>たび</rt></ruby>くない、と。<ruby><rb>調子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>といふものを<ruby><rb>庇</rb><rt>ひさし</rt></ruby>ふと、<ruby><rb>兎角</rb><rt>とかく</rt></ruby><ruby><rb>無意味</rb><rt>むいみ</rt></ruby>な<ruby><rb>文字</rb><rt>もじ</rt></ruby>を<ruby><rb>使</rb><rt>し</rt></ruby>ひたくなる。<ruby><rb>無意味</rb><rt>むいみ</rt></ruby>の<ruby><rb>文字</rb><rt>もじ</rt></ruby>を<ruby><rb>使</rb><rt>し</rt></ruby>ふと、<ruby><rb>何</rb><rt>なに</rt></ruby>うも<ruby><rb>感</rb><rt>かん</rt></ruby>じが<ruby><rb>空疎</rb><rt>くうそ</rt></ruby>になつて<ruby><rb>困</rb><rt>こま</rt></ruby>る。ゴンクールは<ruby><rb>勉</rb><rt>つと</rt></ruby>めて<ruby><rb>文法</rb><rt>ぶんぽう</rt></ruby>を<ruby><rb>排</rb><rt>はい</rt></ruby>し、アカデミイ<ruby><rb>派</rb><rt>は</rt></ruby>の<ruby><rb>文章</rb><rt>ぶんしょう</rt></ruby>の<ruby><rb>整一</rb><rt>せいいち</rt></ruby>を<ruby><rb>蛇蝎</rb><rt>だかつ</rt></ruby>のごとく<ruby><rb>憎</rb><rt>にく</rt></ruby>んださうだが、<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>も<ruby><rb>何</rb><rt>なに</rt></ruby>うか<ruby><rb>名文</rb><rt>めいぶん</rt></ruby>は<ruby><rb>書</rb><rt>か</rt></ruby>きたくない、<ruby><rb>充</rb><rt>たかし</rt></ruby><ruby><rb>實</rb><rt>みのる</rt></ruby>した<ruby><rb>文章</rb><rt>ぶんしょう</rt></ruby>を<ruby><rb>書</rb><rt>か</rt></ruby>きたいと<ruby><rb>心</rb><rt>こころ</rt></ruby><ruby><rb>懸</rb><rt>か</rt></ruby>けて<ruby><rb>居</rb><rt>い</rt></ruby>る。それと<ruby><rb>言</rb><rt>げん</rt></ruby>ふのも、<ruby><rb>自分</rb><rt>じぶん</rt></ruby>の<ruby><rb>文章</rb><rt>ぶんしょう</rt></ruby>がよく<ruby><rb>調子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>に捉へられたり、<ruby><rb>型</rb><rt>かた</rt></ruby>にはまつて<ruby><rb>了</rb><rt>りょう</rt></ruby>つたりするのを豫ねて<ruby><rb>知</rb><rt>ち</rt></ruby>つてゐるからであらう。
HTMLマークアップを実際に表示するとこんな感じ。
充實した文章
田山録弥
私は思ふ、調子の惡い文章は書いても、無駄の多い文章は書き度くない、と。調子といふものを庇ふと、兎角無意味な文字を使ひたくなる。無意味の文字を使ふと、何うも感じが空疎になつて困る。ゴンクールは勉めて文法を排し、アカデミイ派の文章の整一を蛇蝎のごとく憎んださうだが、私も何うか名文は書きたくない、充實した文章を書きたいと心懸けて居る。それと言ふのも、自分の文章がよく調子に捉へられたり、型にはまつて了つたりするのを豫ねて知つてゐるからであらう。
注記に
100%の制度を約束するものではありません。
難読漢字や固有の熟語に関しては、変換精度が著しく下がる可能性があります。とあるとおり、
旧漢字や異字体、固有名詞、現在では慣用的でない使用法をしている漢字など、意図していない読み仮名が付いたり、
×
充實した
文章○
充實した
文章×
田山録弥○
田山録弥×
書き
度くな
い
○書き度くない読み仮名自体が付かなかったり
△
調子の惡い
文章○
調子の
惡い
文章×豫ねて
知つてゐるからであらう。
○
豫ねて
知つてゐるからであらう。
するが、
その辺は校正を行ってチョット手直しをすれば良い。
最初から全部手作業でルビを付けてゆく手間を考えれば、なんと楽なものだか。
総ルビテキストを作りたいときの下準備にはかなり役に立つだろう。
追記。
ざっくり「不適切とおぼしきルビを修正」した文章も置いておく。
充實した文章
田山録弥
私は思ふ、調子の惡い文章は書いても、無駄の多い文章は書き度くない、と。調子といふものを庇ふと、兎角無意味な文字を使ひたくなる。無意味の文字を使ふと、何うも感じが空疎になつて困る。ゴンクールは勉めて文法を排し、アカデミイ派の文章の整一を蛇蝎のごとく憎んださうだが、私も何うか名文は書きたくない、充實した文章を書きたいと心懸けて居る。それと言ふのも、自分の文章がよく調子に捉へられたり、型にはまつて了つたりするのを豫ねて知つてゐるからであらう。