■ 旧真田邸[別窓]
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登録: 2010/09/17(Fri) 19:31 更新: 2010/09/17(Fri) 19:31
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元治元年(1864)に松代九代藩主・幸教の母、貞松院の宅邸として建てられ、後は藩主の隠居所となり明治維新後は真田家の別宅として使用された。 昭和41年に真田家から旧松代町(元長野市)に寄贈され、現在は真田宝物館の一部として一般公開。 7973uの敷地には長土塀・屋敷門・長屋・白倉や小堀遠州の流れをくむ庭園などが残り、数が少ない当時の大名屋敷として大変貴重な存在で国指定史跡に指定されている。 |
訪れた日はちょうど改修工事で休館中だったので、門構えだけ(泣) |
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■ 眞田林大鋒寺の眞田信之公霊屋。[別窓]
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登録: 2010/09/17(Fri) 10:56 更新: 2011/04/08(Fri) 16:58
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真田林大鋒寺内。 「柴村の隠居所」をそのまま霊屋にしたとも、隠居所は別にあり、死後建物のみをこの地に移築したとも言われる。 (撮影日:2010/09/12) 長野市松代町長野県長野市松代町柴38
信之の信仰していた阿弥陀三尊が本尊。 |
真田 信之 永禄9年(1566年)−万治元年10月17日(1658年11月12日)享年93。 安土桃山時代から江戸時代の武将・大名。 信濃上田藩の初代藩主。後に信濃松代藩の初代藩主。 真田昌幸(当時は武藤喜兵衛)の長男。母は宇多頼忠の娘・寒松院(山手殿)。 幼名は源三郎。元服して信幸、のちに信之。 明暦元年(1656年)、長男の信吉や嫡孫の熊之助が既に死去していたため、次男の信政に家督を譲って隠居する。 しかし万治元年(1658年)2月に信政も死去した。 この時、信吉の次男である沼田城主信利が、信政の6男である幸道の家督相続に異議を唱えて幕府に訴える事態となり、幕府や縁戚の大名を巻き込んだ騒動となる。 最終的には幸道が第3代藩主となり、2歳の幼少のために信之が復帰して藩政を執った。 この騒動により信利の領地は沼田藩3万石として独立、松代藩は10万石となる。
信之はこの年10月17日に死去した。 享年93。 |
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