■ 眞田林大鋒寺の眞田信之公霊屋。[別窓]
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登録: 2010/09/17(Fri) 10:56 更新: 2011/04/08(Fri) 16:58
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真田林大鋒寺内。 「柴村の隠居所」をそのまま霊屋にしたとも、隠居所は別にあり、死後建物のみをこの地に移築したとも言われる。 (撮影日:2010/09/12) 長野市松代町長野県長野市松代町柴38
信之の信仰していた阿弥陀三尊が本尊。 |
真田 信之 永禄9年(1566年)−万治元年10月17日(1658年11月12日)享年93。 安土桃山時代から江戸時代の武将・大名。 信濃上田藩の初代藩主。後に信濃松代藩の初代藩主。 真田昌幸(当時は武藤喜兵衛)の長男。母は宇多頼忠の娘・寒松院(山手殿)。 幼名は源三郎。元服して信幸、のちに信之。 明暦元年(1656年)、長男の信吉や嫡孫の熊之助が既に死去していたため、次男の信政に家督を譲って隠居する。 しかし万治元年(1658年)2月に信政も死去した。 この時、信吉の次男である沼田城主信利が、信政の6男である幸道の家督相続に異議を唱えて幕府に訴える事態となり、幕府や縁戚の大名を巻き込んだ騒動となる。 最終的には幸道が第3代藩主となり、2歳の幼少のために信之が復帰して藩政を執った。 この騒動により信利の領地は沼田藩3万石として独立、松代藩は10万石となる。
信之はこの年10月17日に死去した。 享年93。 |
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■ 鈴木忠重の墓[別窓]
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登録: 2010/09/17(Fri) 10:51 更新: 2011/04/08(Fri) 16:59
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信之公墓所脇にある鈴木右近忠重の墓。 (撮影日:2010/09/12) 長野市松代町長野県長野市松代町柴38 真田林大鋒寺内。 |
鈴木忠重(すずき ただしげ、天正2年(1574年) - 明暦4年(1658年)) 上野名胡桃城(沼田の支城)城代・鈴木主戸重則の子で、幼名・小太郎。通称名・右近。柳生心影流の使い手。
名胡桃事件のとき父が自害。当時15歳の忠重は母とともに北条氏に捕われる。解放後、真田昌幸の家臣となった。 昌幸死後は沼田城主・真田信之の家臣として、真田氏の松代転封後は重臣に名を連ねる。 信之病没後に殉死した。享年84。 |
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